近代 東アジア 【「太平天国」の夢】

洪秀全(1814〜64)らが中心となった太平天国の乱(1851〜64)は、キリスト教の影響を受けた反乱であった。ただ、洪秀全らが組織した拝上帝会は、中国の伝統思想や土俗的な信仰に基づく面を強く持っていた。

 客家(はっか)出身の洪秀全は、4度目の科挙受験に失敗した直後、プロテスタントの布教パンフレット『勧世良言』を読み、自分の使命を理解したという。1843年のことであった。アヘン戦争清朝が敗北し南京条約が結ばれた翌年のことである。「地上の天国」を目ざした拝上帝会の挙兵の背景には、清朝の対外的な危機があり、地方政府の乱脈があり、貧しい生活に喘ぐ膨大な数の民衆の存在があった。儒教的教養をも身につけた洪秀全は、エホバの神を中国古来の上帝と名づけ、その著書では「大同が実現すれば天下は公となる」という『礼記』の一節を引用していた。(大同とは孔子が理想としたという、古の平等状態のことである。19世紀末には、康有為が変法運動の理論的支柱とした。)一種のユートピアを思い描きながら、民衆には災いや病からの解放を語っていたのである。

 色に表れた伝統も、興味深い。太平天国の中心の旗は黄色であった。黄旗は神の加護を表すシンボルだったが、中国で黄色は皇帝の色であり、後漢末・黄巾の乱の黄でもあった。また太平天国の兵士たちは紅の戦闘服を着ていたが、紅は中国で永遠の生命を象徴する色であった。元末・紅巾の乱の色であり、義和団を経て、やがて中国共産党の紅軍にも引き継がれた。

 洪秀全の考え方は、中国の伝統思想とキリスト教が出会う中で生まれた。その独特な複合性は民衆を惹きつけ、そのエネルギーを組織した。しかし、太平天国は短期間で瓦解する。内部分裂や現実的な統治能力の欠如のためであったが、別の側面もあった。洪秀全を頂点とする指導者たちと一般の民衆との間には、絶対的な隔たりがあったという。清朝と相通ずる専制的な面を、太平天国も持たざるを得なかったのである。1864年、天京(南京)陥落直前に、洪秀全は病死した。

※同時代  クリミア戦争(1853〜56) イタリア王国成立(1861) ビスマルク、首相に(1862) 南北戦争(1861〜65) インド大反乱(1857〜59)
 アロー戦争(1856〜60) ペリー来航(1853)

《参考文献》
 菊池秀明『太平天国にみる異文化受容』(山川出版社
 並木頼寿・井上裕正『中華帝国の危機』(中央公論社版世界の歴史19)