★『聖書』とは? 翻訳とは? −新訳(聖書協会共同訳)に思うこと−

 『聖書』の新しい翻訳が行われ、旧約・新約合わせて、先ごろ出版されました。1987年の新共同訳から31年ぶりとのことです。「聖書協会共同訳」と銘打たれています。

 帯に「ゼロから翻訳」とありましたので、興味深く手に取りました。まだところどころ読んだだけですが、訳文は新共同訳とけっこう変わっているようです。装丁も、これまでとは違います。

 出版にこぎつけるまで、大変なご苦労があったことと思います。そのことを踏まえたうえで、とりあえず、簡単に素人の感想を述べさせていただきます。原典の言語(ヘブライ語ギリシア語)がわかりませんので、翻訳について云々できる立場ではないのですが。

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◆3つの訳を比較してみると

 「新約聖書」の部分を、新共同訳(1987)と比較してみました。1か所だけ、取り上げてみます。

 「マルコによる福音書」14章のゲツセマネの祈りの一節は、次のように違います。

A 今回の聖書協会共同訳

  【イエスはひどく苦しみ悩み始め、彼らに言われた。】

B 新共同訳

  【イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。】

 以前、新共同訳を読んだ時、『「もだえ始め」? ちょっと変だなあ』と思ったものです。


 同じ一節を、原文に忠実と言われる、別の訳でみてみます。

C 田川建三

  【そして驚愕、困惑しはじめた。そして彼らに言う。】

     [田川建三新約聖書 訳と註 1』(作品社、2008)]

 田川訳は、A・Bとはかなり違っています。


 Cが原文に可能な限り忠実だとすると、今回の共同訳もかなり意訳されていることになります。([田川建三新約聖書 訳と註』全7巻は、昨年、毎日出版文化賞を受賞しました。)

 今回の訳には、ところどころに「直訳」や「別訳」も載っていて、良心的です。ただ、引用したAの文章には、「直訳」も「別訳」も載っていませんでした。底本の選び方も関係しているのでしょうか?

 序文に「礼拝での朗読にふさわしい、格調高く美しい日本語訳を目指した」と書かれていますので、あるいは原文に即していないところがあるのかも知れません。

 以上、ある一節を3つの訳で比較してみました。これだけでも、『聖書』翻訳の大変さがわかります。

 なお、これら以外にも、『ウルガタ』(ラテン語訳聖書)の翻訳を含め、複数の訳があることは承知していますが、すべてを比較・検討したわけではありません。


◆「格調高く美しい日本語訳」?

 今回の『聖書』を何割の教会で使うことになるのかわかりませんが、「礼拝での朗読」は大切でしょう。何よりも、『聖書』はクリスチャンのためのものですから。

 ただ、「格調高く美しい日本語訳」という表現は、どうなのでしょうか? 「格調高く美しい日本語」が自明なものであるかのように使われています。考え過ぎかもしれませんが、ナショナルなものに親和的というか、無自覚になっているように思われます。戦前・戦中の時代なら歓迎された表現だと思いますが。

 「格調高く美しい日本語」は、自明なものではないでしょう。固定したものでもないでしょう。日本語は変化してきましたし、これからも変化していきます。日本語も日本文化も、他の文化といっそう混交する時代になってきていることを考えると、安易に「格調高く美しい日本語」などという表現を使ってほしくなかったと思います。

 別の問題もあります。そのような日本語で『聖書』と信徒の情緒的一体感を高めようとするのであれば、もう一つの危うさを招くような気がするのです。情緒的一体感を追い求めると、『聖書』の各部分の歴史性や多様性が見失われることになるのではないか、などと余計な心配をしてしまいます。


◆非クリスチャンにとっての日本語訳は

 『聖書』はクリスチャンのためのものですが、クリスチャンの少ない日本での『聖書』翻訳・出版であることも、考える必要があります。

 クリスマスはなぜか定着しているものの、日本人の99%近くはクリスチャンではありません。したがって、<非クリスチャンにとっての『聖書』>という視点も欠かせないと思います。<教養としての『聖書』>という流行りの言い方は、ちょっと違和感がありますが。

 私のような非クリスチャンは、「聖なる書物」としてではなく、歴史上の重要文書として『聖書』を受けとめています。歴史上の重要文書と考えれば、必ずしも「格調高く美しい日本語訳」でなくてもいいように思います。むしろ、<原文に忠実な日本語訳>が求められるでしょう。

 大切なのは、『聖書』を通して、現代の日本とは異なる時代・地域を生きた人々の世界を理解しようとすることだと思います。そのためには、<原文に忠実な日本語訳>と<適切な註>が必要です。

 原文に忠実であれば、ごつごつした手触りを感じさせるような訳文であっても、差支えないのではないでしょうか。そのような『聖書』であっても、と言うより、そのほうが原文の本質を表しているのであれば、『聖書』のメッセージがより確かに伝わるのではないかと思います。


◆「変わらない言葉」という問題

 今回の聖書協会共同訳『聖書』の帯には、「変わらない言葉を変わりゆく世界に」と記されていました。もしかしたら、この言葉で『聖書』に惹かれる方もいるかも知れません。

 <本質的に「変わらない言葉」(=普遍)>という意味だと思います。「変わりゆく世界」とは異なる<『聖書』の普遍・ロゴス>が、考えられているのでしょう。

 ただ、「変わらない言葉を変わりゆく世界に」は、実はさまざまな問題を含んだフレーズです。

 たとえば、『旧約聖書』・『新約聖書』の成り立ちに関わる問題です。どちらも、長い年月をかけ、諸文書がまとめられてできたものです。成立の過程を歴史的・理性的にたどれば、『聖書』全体を<「変わらない言葉」=普遍>と主張するのは適切ではないことがわかります。むしろ、諸文書の歴史性と多様性こそが『聖書』の魅力だ、と言えるような気がしているのですが。

 もちろん、このような見方は、多くのクリスチャンにとっては受け入れ難いものでしょう。しかし、このような見方を退ければ、クリスチャンはかえって困難な問題にぶつかるように思われます。「聖なる書物」として無条件に崇拝すれば、みずから否定する、偶像崇拝的な考え方に限りなく近づくことになってしまうからです。

 また、自覚されてはいないと思いますが、「格調高く美しい日本語訳」という表現でナショナルなものに共感し、それを称揚しながら、同時に<普遍・ロゴス>を唱えるのは、明らかな矛盾です。<普遍・ロゴス>は、日本においては、日本語という個別の言語で伝えられるしかありませんが、だからこそナショナルなものに自覚的でなければならないと思います。

 またそこには、一神教と日本の精神風土(アニミズム的な多神・多仏世界)との関わりという大きな問題が、潜んでいるように思われます。アニミズム的な多神・多仏世界は、「無常」感とも結びついてきました。「変わりゆく世界」とは、よかれ悪しかれ、日本人が「無常」という語で慣れ親しんできたものにほかなりません。

 「無常」を受けとめながらも、私たちは、やはり、「変わらない言葉」を求めていると思います。<普遍・ロゴス>と呼べるようなものを、唯一神への信仰や多神・多仏世界とは少し別のところに探すのは、けっこう大変ですけれど。

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 『聖書』は歴史上きわめて重要な書物ですし、独特の魅力を持っていることも事実です。

 「『聖書』の歴史性と魅力を正しく伝える翻訳とは?」という問いは、専門の研究者の方々にとって、切実なものだと思います。

 この問いを、『聖書』に関心を持つ非クリスチャンも、避けることはできません。当たり前のことですが、ほとんどの場合、クリスチャンにも非クリスチャンにも、『聖書』は翻訳を通してしか伝わらないのです。

 もし、適切でない意訳や誤訳の多い『聖書』が「聖なる書物=変わらない言葉」として流通してしまったら、そして多くの人々がそれに気づかなかったとしたら、もう悲劇としか言いようがないでしょう。

 今回の聖書協会共同訳がそのような『聖書』でないことを、切に願っています。