中世 東アフリカ 【スワヒリ世界ができた】

■現在タンザニアケニアではスワヒリ語公用語となっている。スワヒリ語は、現地のバントゥー語とアラビア語が混じり合ってできた。アラビア語がどうして東アフリカに伝わったのか?

 7・8世紀以降のイスラーム世界の急速な拡大は、交易活動の活発化や人々の移動を促進し、ペルシア湾岸・アラビア半島南部から多数のアラブ人・イラン人ムスリムが東アフリカ地域にやってくるようになった。また、10世紀後半以降イスラーム世界の中心がバグダードからカイロに移ると、東アフリカは、ヒジャーズ地方(メッカ・メディナを含む、アラビア半島の紅海沿岸)を経てエジプトともつながった。カイロを拠点にしたカーリミー商人が活躍したのは、11世紀から14世紀にかけてである。このような歴史の中で、東アフリカでは、マリンディ、モンバサ、キルワなどの港町が発展した。こうして、東アフリカ沿岸地域のイスラーム化が進み、アラビア語の受容とともにスワヒリ世界が形成されたのである。(なお、「スワヒリ[サワーヒル]」という語を最初に使ったのは、14世紀前半のイブン=バットゥータだったという。)

 ムスリムの移動を可能にしたのは、紀元前から続く、季節風による航海ルート(ペルシア湾岸・アラビア半島南部〜東アフリカ沿岸のルート)だった。地図を見ると、「アフリカの角」を回るとまもなく東アフリカに続くことがわかる。そしてこのルートは、ローマ時代以来の季節風貿易ルートにつながっていた。アラビア海・インド洋航路である。スワヒリ世界は、季節風(4月から10月までの南西の季節風、11月から3月までの北東の季節風)を利用して成立したインド洋海域世界の、西端の交易圏だったのである(スワヒリ世界には、インド商人もやって来ていた)。三角帆を装備したダウ船が活躍していた。

 やがて15世紀前半、インド洋海域世界を通って、東からスワヒリ世界にやって来たのが鄭和の船団だった。さらに15世紀末、喜望峰から北上してきたポルトガル船団が初めてスワヒリ世界にやって来た。ヴァスコ・ダ・ガマはマリンディで水先案内人を雇い、インド洋海域世界を東へ航行してインドに達したのである。

《参考文献》
 家島彦一『海が創る文明 インド洋海域世界の歴史』(朝日新聞社
 富永智津子「東部アフリカをめぐる王権と商業」(『シリーズ世界史への問い3・移動と交流』[岩波書店]所収)