中世 西アジア 【イスラーム教の誕生】

ユダヤ教キリスト教がすでに歴史を刻んでいた中で、イスラーム教が誕生する必然性は、どこにあったのか?

 ムハンマドはマッカ(メッカ)の商人であった。マッカやマディーナ(メディナ)を含むヒジャーズ地方は、6世紀から交易ルートとして活況を呈するようになった。ビザンツ帝国ササン朝の国境付近での争いが激しく、隊商の通行が危険となったためである。このあたりは、オアシスの道や海の道の一番西側に当たり、地中海への入り口であった。両国の国境地帯を避けて、メソポタミアからヒジャーズ、そしてシリアへのルート、アラビア半島南端のイエメンからヒジャーズを通ってシリアへ至るルートを、隊商が行き来するようになったのである。また、マッカはアラビアの多神教の中心地であり、巡礼も盛んだった。このような社会の中で、ムハンマドは、瞑想の時間を持つ商人として生活していたのである。

 610年頃、マッカ近郊・ヒラー山の洞窟で瞑想していたムハンマドに、大天使ジブリールが現れて、「読め!」と命じたという。言われた言葉を復唱すると、それが『クルアーンコーラン)』の最初の章句となった。大天使の言葉は唯一神アッラーの言葉であり、この時からムハンマド使徒預言者となった。(クルアーンの元来の意味は、「読まれるもの」である。)ムハンマドが40歳の頃の出来事であった。

 この伝承の中に出てくる大天使ジブリールから、イスラーム教成立の重要な背景を知ることができる。大天使ジブリールとは、イスラーム教独自の天使ではない。ユダヤ教キリスト教の大天使ガブリエルのことである。ガブリエルは神の意志を伝えるメッセンジャーであり、マリアに受胎を告知したのもガブリエルであった。このことからも、イスラーム教が、ユダヤ教キリスト教の影響下に生まれた一神教だったことがわかる。ムハンマドは商人としてシリアに行っており、そこでキリスト教にも接していたが、当然のことながらアラビア半島にもユダヤ教キリスト教は伝わっていた。ムハンマドは、ユダヤ教キリスト教を、同じ神から啓示を受けた先行宗教として認めていたのである。イスラーム教は、モーセアラビア語ではムーサー)を始めとする旧約聖書預言者だけでなく、イエスアラビア語ではイーサー)をも預言者としている。ただ、ムハンマドは、最高の預言者であり、最後の預言者であるとされる。

 当時のマッカの人々のほとんどは、父祖伝来の現世的多神教を信じていた。聖典はなく、部族的伝統が最も重視されていた。部族主義は血統や身分を土台とするものであるが、ムハンマドはこれを否定した。人間の平等の主張は強烈であった。また、富の偏在と富者の奢りを批判し、貧者・弱者の救済を訴えた。これらは、彼の孤児としての体験に裏打ちされていた。ムハンマドは、現世主義と部族主義に対し、来世の観念を持ち込み、唯一神アッラーの普遍性をぶつけたのである。彼の出身部族であったクライシュ族の人々は、驚き、困惑し、やがて激しく否定した。(なお、本稿では慣用的にイスラーム教という語を使用しているが、イスラームとは「神アッラーへの絶対帰依」を意味しており、正しくは「教」をつけず、イスラームと言う。)

 マディーナには、多数のユダヤ教徒が住んでいた。マッカでの布教に行き詰まったムハンマドたちは、一神教の基盤のあるマディーナにヒジュラを行い(622)、そこでウンマ(部族を超えたイスラーム共同体)をつくることに成功したのだった。ヒジュラ直後の「マディーナ憲章」は、ユダヤ教徒との共存を定めていた。同じ神から啓示を受けた仲間と受けとめられていたのであろう、当初ムハンマドたちは、ユダヤ教徒と同じくイェルサレムに向かって礼拝していた。しかし、ユダヤ教との違いがしだいに明らかになっていった。礼拝の方角をマッカに変え、明確に新たな宗教へと舵を切ったのである。ただ、イェルサレムとのつながりは、イェルサレムにおけるムハンマドの昇天と帰還の伝説として強力に残っていった。また「マディーナ憲章」の精神は、ウンマと共存する限り、ユダヤ教徒キリスト教徒を経典の民として尊重することで生かされた。

 ムハンマド選民思想をとらなかった。また、貧しい人々への目の注ぎ方が違っていた。「イエス=神の子」説や原罪は否定された。イスラーム教では、イエスはあくまで預言者の一人であり、従って三位一体説は否定される。またアダム(アラビア語ではアーダム)とイヴ(アラビア語ではハウワー)の罪は、楽園追放という過酷な出来事によって償われたとされる。イスラーム教で問われる罪は、成人した個人が犯す罪だけである。

 7世紀前半、ユダヤ教キリスト教とは明確に区別された、新たな一神教が姿を現した。アラビア半島西部における一神教多神教のせめぎ合いの中から、また一神教同士のせめぎ合いの中から、イスラーム教は誕生したのだった。

《参考文献》
 小杉泰『イスラーム帝国のジハード』(興亡の世界史6[講談社])
 佐藤次高イスラーム世界の興隆』(中央公論社版世界の歴史8)
 ひろさちや・黒田壽郎『世界の聖典3・コーラン』(すずき出版)