現代 ヨーロッパ 【戦車と装甲車が、プラハの街を埋めた】

★1968年、チェコスロヴァキアは、改革の希望に燃えていた。「プラハの春」である。
 ドプチェク第一書記のもと、共産党自身が改革に乗り出した。4月、共産党の文書は次のように述べた。

「党の目標は、社会の万能の支配人になることや、その指令によってあらゆる組織と生活の一切を拘束することではない。…過去に起こったように、何らかの口実の下に少数者に復讐するようなことを許してはならない。」(加藤雅彦訳、以下同じ)

そして6月、知識人たちによって、「二千語宣言」が発表された。

「われわれは、希望のこの瞬間において、絶えずそれがおびやかされているにもかかわらず、君たちに呼びかける。この制度を人間的にしようというわれわれの意図を絶対に完成しなければならない。」

 8月20日深夜、ソ連軍を主力とするワルシャワ条約機構軍20万がチェコスロヴァキアに侵攻した。(この時のソ連の指導者はブレジネフであった。)翌日、ドプチェク第一書記やチェルニク首相は逮捕され、モスクワに連行された。中世の面影を残す、美しい街プラハは、戦車と装甲車で埋め尽くされた。ある市民は、苦い思いで記した。

フランツ・カフカの生家の前にも、戦車が陣取っていた。カフカ哲学はその具体的シンボルを得てしまった。」

プラハ市民は、武器を取らなかった。言葉の力を信じた。多くの市民がソ連兵に語りかけ、その過ちを理解させようとした。ソ連軍部隊は、共産党機関紙の編集室・印刷工場にも侵入した。制圧される直前、編集者たちは訴えた。

社会主義に人間の顔を再び与えること、われわれはこの目的に全力を捧げる。われわれは、人間的な社会主義が大砲の砲身の下では達成されないことを知っている。」

国営放送も抵抗を続け、地下放送で情報を伝えた。しかし、民主主義と自由を求めた闘いは圧殺された。ドプチェクらは帰国したものの、改革の道は閉ざされ、翌年春辞任する。

 けれども、「プラハの春」は敗れ去ったのではなかった。1989年、東欧社会主義政権が次々と崩壊した。喜びに沸くチェコスロヴァキアの人々は、21年前の「プラハの春」を思い出していた。少し年老いたドプチェクは、歓呼の声を上げるプラハ市民の前に、笑顔で現れたのだった。

《参考文献》
 笹本駿二・加藤雅彦編『東欧の動乱』(ドキュメント現代史10、平凡社
 猪木武徳高橋進『冷戦と経済繁栄』(中央公論社版世界の歴史29)