古代 地中海世界 【イオニアの海辺で、哲学が生まれた】

★哲学はなぜギリシア世界で生まれたのか? なぜギリシア本土ではなく、エーゲ海東岸のイオニア地方で生まれたのか? いわゆる自然哲学者(プレ・ソクラテス期の哲学者)の多くが、イオニアギリシア人都市やその近くの人であった。ミレトスからはタレスアナクシマンドロスが、エフェソスからはヘラクレイトスが、サモス島からはピタゴラスが現れた。

 イオニアの都市の歴史は古い。ミレトスやエフェソスには、前12世紀頃から、耕地を求めてギリシア人が定住した(ギリシア本土は穀物栽培のための耕地には恵まれていなかった)。彼らは、閉じたギリシア人世界をつくろうとはしなかった。先住民との混血が進んだ地域もあった。すでにフェニキアが地中海交易で活躍していた時期であったが、イオニアをはじめとする東地中海のギリシア人は、フェニキア人との交流から多くのものを吸収していった。なかでも、文字の受容は重要である。前9世紀後半、ギリシア人はフェニキア文字からギリシア文字をつくり出した。いわゆるアルファベットの誕生である。それは、ギリシア人とフェニキア人が混在していた、北シリア海岸部かキプロス島においてであったと言われる。ギリシア文字は、そこからすぐにイオニアへと入ってきたであろう。海は、まさに人と商品と文化を運ぶ交通路であった。ゼウスが牡牛に姿を変えてフェニキアの娘エウロペ( Europe )をギリシアへと連れ去った神話は、このような交流の表現にほかならない。

 異文化を受容することから成立したギリシア文字は、神官たちの権威とは無縁であった。文字を使って記録することの喜びは、当初からすべての人のものであった。ギリシア文字が生まれてから半世紀後(前8世紀の初め)、ホメロスにより『イーリアス』と『オデュッセイア』がまとめられた。神話的な要素を含みながらも、叙事詩というかたちで文学が成立したことは、大きな意味を持っていた。英雄の姿を通して、人間の生き方が追求された。そこには、苦難を引き受けて生き切ることへの共感があった。おそらく、文学を生み出すという精神の進化がなければ、哲学的思考は誕生しなかっただろう。

 最初の哲学者タレスは前7世紀末から前6世紀前半の人である。叙事詩の成立から、200年の歳月が流れていた。ギリシア人の精神世界は、さらに広がりと深まりを持っていっただろう。

 この頃のミレトスは、まさに国際的な交易都市であり、諸民族の十字路であった。ギリシア人やフェニキア人だけでなく、東地中海のさまざまな地域から来た船乗りたち、商人たち、職人たちが群れ集い、街を行き交っていた。バイリンガルであることは、ごく普通のことであっただろう。ミレトスはエジプトとも関係が深い(多分、エジプトのギリシア世界への影響は、通常考えられているよりも大きい)。前7世紀末、ナイル河口に植民市ナウクラティスを建設し交易拠点としたのは、ミレトスの人々であった。タレスも、フェニキアからエジプトまで旅している(タレスの「水」という発想には、海だけでなくナイル川が影響していたかも知れない)。タレスを含め、少なからぬ人々が「オデュッセウス」だったのである。ピタゴラス南イタリアに移住したし、前5世紀の歴史家ヘロドトスイオニアの人である)の足跡は黒海北岸・フェニキア・エジプト・ペルシアに及んでいた。

 さらに、重要なことがあった。イオニアは、前7世紀にリディアで史上初めて造られた鋳造貨幣の直接的影響を、最も早く受けたところだったのである。貨幣の登場は、人々の思考を深化させた。前6世紀頃のインドや中国でもそうであったが(シッダールタや孔子老子が現れた)、貨幣経済の活発化(貨幣の象徴機能の社会への浸透)と抽象的思考の誕生は、深い関連を持っている。

 イオニアは、ギリシア世界とオリエント世界が交錯する、活力に満ちた交流圏であった。人と商品と貨幣と諸言語が行き交う海辺は、ミュートス(神話)や叙事詩とは異なる思考を、強く要請した。自分たちが生きる世界を説明する新たな言葉が求められた。そして人々は、それをロゴスと呼んだ。ロゴスの探究は、アルケー(万物の根源)についての思索へとつながった。自然哲学という言い方は、あまりふさわしくないだろう。「世界の原理とは何か」という問いが、イオニアから浮上したのである。

 ロゴスの探究は、エウロペ( Europe )とも呼ばれたギリシア本土に引き継がれた。知を愛し求めること=フィロソフィア( philosophia → philosophy[E])は、ギリシア人の精神の重要な要素となったが、愛し求められた知の中核にあったのはロゴスにほかならない。ソクラテスアゴラで人々と対話(問答)し、プラトンは多くの対話篇を著したが、対話をギリシアではディアロゴス( dialogos → dialogue[E])と言った。「ロゴスを分かち持つこと」という意味であった。ロゴスが融解するところに解決を求めた、アジアの思想とは異なっていたのである。

 プラトンアリストテレスにより、「ヨーロッパ( Europe )哲学」が成立した。しかしその結果、イオニアで生まれた哲学は、ヨーロッパ哲学成立に関わる挿話として位置づけられるようになってしまった。「プレ・ソクラテス期の哲学」という言い方が、このことをよく表している。ヨーロッパ哲学(ギリシア哲学)は、その後キリスト教とも出会った。スコラ学と呼ばれた神学こそは、キリスト教のロゴス的展開であった。ヨーロッパ哲学は、神学と袂を分かってからも、巨大な樹のように成長した。人々は、イオニアの哲学という根を忘れた。

 イオニアの哲学の根源性を鋭く感じ取ったのは、ヨーロッパ的思考そのものを転換しようとしたニーチェであった。19世紀末、巨木の病は鋭く指摘され、根が見つめられた。そして20世紀に入り、プレ・ソクラテス期の哲学には、大きく二つの方向から光が当てられた。まず、ディールスとクランツによって『ソクラテス以前哲学者断片集』がまとめられた。これは、ニーチェが若い頃に没頭したギリシア文献学の成果でもあった。さらにハイデガーが、哲学の賦活のために、プレ・ソクラテス期へと遡行した。改めて、存在への問いが発せられた。こうして、私たちの前に、イオニアの哲学がその姿を現すようになったのである。

 イオニアの海辺から始まった始原の哲学は、今も独自の光を放ち続けている。

《参考文献》
 山本光雄訳編『初期ギリシア哲学者断片集』(岩波書店、現在は新しい訳・編集で刊行されている。)
 坂口ふみ『ヘラクレイトスの仲間たち』(ぷねうま舎
 桜井万里子・本村凌二ギリシアとローマ』(中央公論社版世界の歴史5)
 桜井万里子『いまに生きる古代ギリシア』(NHK出版)
 ドゥルーズガタリ『哲学とは何か』(財津理 訳、河出文庫

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