近世 アジア 【ザビエルの遺骸】

■1543年にポルトガル人が種子島に漂着したことから鉄砲が伝来したこと、そして6年後にイエズス会のザビエルがやって来たことは、よく知られている。しかし、なぜか、ザビエルとポルトガルの関係が見えるようには教えられない。

 ポルトガル種子島漂着の前年の1542年に、ザビエルはインドのゴアに到着した。ゴアは、1510年ポルトガルが占領し、ポルトガルのアジア進出の拠点となっていた都市である。ザビエルは、ポルトガルジョアン3世の依頼を受けて、アジア布教の旅に出たのだった。1547年ザビエルはマラッカで日本人アンジロー(またはヤジロー)に出会って日本布教を決めるが、マラッカもまたポルトガルが占領していた都市であった。ポルトガルのアジア進出とカトリックの対抗宗教改革という二つの大きな流れが、ザビエルという人物の中に合流していたのである。

 2年余りの日本布教の後、1552年12月、ザビエルは熱病にかかり、広州近くの上川島で亡くなった。46歳であった。ザビエルの遺骸は石灰を詰めて納棺され海岸に埋葬されたが、マラッカに移すため2ヵ月半後に掘り返したところ、生けるがごとくであったという。マラッカで埋葬されてからさらに2ヵ月後掘り返してみると、遺骸はなお生けるがごとくであった。この奇蹟の情報はゴアまでもたらされ、遺骸はとうとうゴアに運ばれ教会に安置された。やがて一般に公開され、参観が許されることとなった。1554年3月のことである。その時、事件が起きた。ある女性が遺骸の右足の薬指と小指を噛み切って持ち去ったのである。女性は生涯これを大切に保管し、彼女の死後教会に返された。(そのうち一つは、1902年、スペイン・バスク地方のザビエルの生家に移された。)1614年、奇蹟の実証のため、遺骸の右腕(肘から下)はローマに送られ、1622年列聖された。右腕は、現在はローマのイエズス会総本部に保管されている。また、右腕の肘から上の部分は、現在、中国マカオ(ここもポルトガルの植民地であった)の教会に保管されているという。

 ザビエルは、今も、インド・ゴアのボン・ジェズ教会で永遠の眠りについている。ザビエルの遺骸にまつわる話は、カトリックの聖遺物崇拝(キリスト、マリア、聖人の遺骸や遺品を敬う習慣)をよく表している。

 カトリックに限らず、ミイラ、仏舎利レーニンの遺体など、遺骸を尊ぶ心性は、人間の歴史の中で連綿と続いてきたのである。

《参考文献》
 司馬遼太郎街道をゆく22 南蛮の道Ⅰ』(朝日文庫
 村井章介『世界史から見た戦国日本』(ちくま学芸文庫