古代 東南アジア 【アンコール・ワットの光と影】

カンボジア世界遺産アンコール・ワットは、12世紀前半、アンコール朝のスールヤヴァルマン2世(位1113〜50)によって造営された。王の即位とともに着工され、30年以上の歳月をかけて造られた。ヒンドゥー神話「乳海攪拌」や古代インドの叙事詩マハーバーラタ』を描いた浮き彫りが有名であり、あでやかなデ-ヴァター(女神)たちの姿はクメール美術の精華として知られている。

 この時代はアンコール朝の最盛期で、チャンパー(占城)を攻撃してメコン川下流域を勢力下に入れ、西側ではタイ中部からチャオプラヤ川流域まで勢力を伸ばした。特にメコン川下流域は、南インド・中国との交易ルートとして重要であった。アンコールは、インドシナ半島最大の交易センターとしても機能していたのである。クメール帝国と言ってもよい状況だった。

 アンコール・ワットは、ヒンドゥー寺院として造られた。カンボジアでは、王権の柱として、7世紀からヒンドゥー教が導入されていた。王はヴィシュヌ神の化身と考えられており、アンコール・ワットヴィシュヌ神に捧げられている。したがってアンコール・ワットは、王が神と一体となる儀式を執り行う場であり、地方の諸寺院の頂点に位置していた。地方有力者は多くの土地・財産を、寄進を通じて地方寺院の管轄下においていたので、ヒンドゥー教を通じた祭政一致のネットワークが成立していたと言える。ただ、30年以上の大伽藍造営は、民衆(多くの人々にはアニミズム的信仰も色濃く残っていた)を疲弊させた。

 カンボジアにおける、ヒンドゥー教を柱にした支配体制は、この時代をもって終わりを告げる。スールヤヴァルマン2世の強権支配は12世紀半ばに瓦解し、王朝は混乱する。混乱を収拾したジャヤヴァルマン7世(位1181〜1219)は、都城アンコール・トムを造り、再び支配領域を拡大した。彼が帰依していたのは、ヒンドゥー教ではなく大乗仏教であった。その信仰はバイヨンの巨大な仏顔に表されたが、大規模な仏像・寺院建立はやはり国を疲弊させた。王の死後、アンコール朝は衰退に向かうのである。

※東南アジア史研究では、13世紀前半までが古代とされる。

《参考文献》
 斎藤照子「経済システムと技術 アンコールとパガンの水利事業」(『岩波講座・世界歴史6』所収)
 石澤良昭・生田滋『東南アジアの伝統と発展』(中央公論社版世界の歴史13)
 平山郁夫石澤良昭・松本栄一『アンコール・ワットへの旅』(講談社