現代 北アメリカ 【ノーマ・ジーンは、駆け抜けた】

★1962年5月、会場にマリリン・モンローの甘い歌声が流れた。ジョン・F・ケネディ大統領の誕生パーティで、「ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー」を歌ったのだった。アメリカン・ドリームのヒロインとして絶頂にあったかに見えたマリリン・モンロー。しかし、その3ヵ月後、自宅で遺体となって発見された。36歳、睡眠薬の多量摂取が原因だった。
 マリリン・モンロー(本名ノーマ・ジーン)は、1926年ロサンゼルスに生まれたが、その時母親はすでにノーマ・ジーンの父親とは別れていた。母親と暮らした期間はほとんどなく(母親は精神を病んでいた)、里親の家や孤児院で成長した。心から「パパ、ママ」と呼べる人がいなかった幼少女時代。しかも、世の中には大恐慌(1929〜)の嵐が吹き荒れていた。ノーマ・ジーンが夢を追いかける活力を失わなかったのは、不思議なくらいである。
 ノーマ・ジーンは、第二次世界大戦中(1939〜45)に16歳で結婚したが、夫は戦地に行き、二人の関係はそのままになってしまった。戦後は大衆雑誌のモデルとして生活しながら、映画女優への道をつかもうとした。1953年の映画『ナイアガラ』以降スターになったノーマ・ジーンだが、27歳の時の結婚(相手は大リーガーだったジョー・ディマジオ)は、わずか9ヵ月で破綻した。この後、彼女は「アクターズ・スタジオ」で懸命に演技の勉強をしている。彼女は「頭の弱いセクシーな女」ではなかった。撮影の合間に、よく本を読んでいたという。3度目の結婚は30歳の時で、相手は劇作家のアーサー・ミラーだった。彼女は、ユダヤ教に改宗してまでミラーと結婚した。結婚生活は4年半、2度の流産の後、1961年に離婚している。映像に残る彼女の笑顔は屈託ないが、ごく普通の家庭生活を、生涯手に入れることはなかったのである。
 1950年代は、アメリカが政治的・経済的・軍事的に、そして文化的にも、世界で大きな影響力を持つようになった時代であった。そのような時代に、マリリン・モンローは、映画を通じて、アメリカ大衆文化のシンボルになった。西側資本主義大衆文化のシンボルとなった。まだ、ジェンダーという概念がなかった時代である。
 大恐慌期から60年代初頭までを、彼女は、懸命に駆け抜けた。アメリカの明るい夢と辛い現実を一身に引き受けて。
 「アクターズ・スタジオ」でマリリン・モンローに演技指導したストラスバーグは、弔辞で次のように述べた。

   「彼女はその生涯を通じて一つの神話を創造した。それは、虐げられた生活の中で成長した少女のみがなし得ることであった。」

《参考文献》
 亀井俊介マリリン・モンロー』(岩波新書
 本間長世アメリカン・ヒーローの系譜』(日本放送出版協会