中世 ビザンツ帝国 【聖像破壊運動が吹き荒れた】
■イスラームのウマイヤ朝軍を退けたばかりの皇帝レオン3世は、726年自らの信条を表明した。キリストやマリアを描きそれを拝むことは、聖書に禁じられた偶像崇拝であると、主張したのである。730年には、正式に聖像破壊の勅令が出された。イスラームの偶像崇拝禁止の影響を受けながら、西方ローマ教会との違いを明確にしたかったのだろう。聖像破壊運動(イコノクラスム)が全土で展開された。
しかし、この運動は大きな抵抗に出会った。聖職者はもちろん一般市民とのトラブルも頻発した。特に女性たちは、各地でイコンを守ろうとした。この中から、イコンを守ろうとして殉教した聖女テオドシアの伝説も生まれたという。
聖像破壊運動は、60年で終わる。(なぜか、教科書に記載されることは、ほとんどない。)787年、コンスタンティノス6世(コンスタンティヌスは理想の皇帝として崇められていたので、同名の皇帝がたくさんいる)の時である。第2ニカイア公会議で、「信仰の媒介」として聖像崇拝が承認された。この時実際に公会議を招集したのは、女性摂政エイレーネーであった。アテネ出身の彼女は皇帝の母であり、のちに息子を廃位してビザンツ史上初の女帝となった人物である。このように、イコンと女性の結びつきはとても深い。
9世紀前半に一時聖像禁止の復活があっただけで、イコンの礼拝は今日まで続いている。イコンは、布教にその威力を発揮した。ギリシア正教の広まった南スラヴ人や東スラヴ人の間でも、イコンは重要な礼拝対象であった。
なお、ビザンツ帝国で聖像破壊運動が吹き荒れた8世紀は、地中海周辺における3つの世界の成立という点でも重要な時期である。750年アッバース朝が成立し、イスラーム世界は新たな時代に入った。またフランク王国では751年カロリング朝が成立し、ローマ教皇との結びつきを深めていった。かつてローマ帝国が支配していた領域は、三分されたのである。
《参考文献》
井上浩一『私もできる西洋史研究』(和泉書院)
井上浩一・栗生澤猛夫『ビザンツとスラヴ』(中央公論社版世界の歴史11)