近世 ヨーロッパ 【ガリレオ・ガリレイという名前】

ガリレオ・ガリレイは、不思議な名前だ。名と姓がほとんど同じである。アルファベットで書くと、Galileo Galilei となり、一字しか違わない。これはイタリアのトスカーナ地方の習慣で、姓と同じような名をつけたという。
 さらに興味深いのは、ガリレイという姓がガリラヤ(Galilaia)に由来するということである。ガリラヤは、イエスの生まれた地方である。また、イエスの教えが最初に広まった地方である。イエスに由来する姓と名を持つ彼がカトリック教会の裁判にかけられたのは、何という歴史の皮肉であろう。1633年の宗教裁判で、ガリレイは自説を撤回しなければならなかったのである。これも皮肉なことであるが、裁判はローマのミネルヴァ修道院で行われた(ミネルヴァは知恵の女神である)。ガリレイは、すでに69歳になっていた。
 この宗教裁判は、コペルニクスが出版した『天球の回転について』(1543)の90年後に行われた。ローマ法王庁は、地動説を提唱した『天球の回転について』を、聖書に反するものとして禁書としていたのである(1616年)。キリスト教会は、中世以来、神が創造した世界についての唯一の解釈者であった。これに対しガリレイは、1632年出版の『天文対話』(『プトレマイオスコペルニクスの二大世界体系についての対話』)でコペルニクス説の妥当性を論証したのだった。
 宗教裁判後、ガリレイは自宅軟禁状態となった。しかし、ガリレイの学問的エネルギーは衰えなかった。物質の自由落下運動とその加速度等について述べた『新科学対話』は、1638年オランダで出版された。この本はすぐに売り切れとなり、ガリレイ自身が手にしたのも、11ヵ月後のことであったという。この頃、イギリスの詩人ミルトンがガリレイを訪ねている、
 1642年、近代科学に不滅の名を残したガリレオ・ガリレイは、静かに息をひきとった。

《参考文献》
 青木靖三「近代科学の源流ガリレオ」(青木靖三編『世界の大思想家6・ガリレオ』[平凡社]所収)