中世 ヨーロッパ 【バイリンガルだったカール大帝】

カール大帝は、フランク王国最盛期の王で、いわゆる「カールの戴冠」(800.12.25)で有名である。カール大帝はドイツ語に基づく言い方で、日本ではこの呼称が一般化した。フランス語形のシャルルマーニュも使われるが、これはラテン語のカルロス=マグヌスがもとになっている。[英語では、Charles the Great と書かれる。]

 ところで、彼自身は自分を何と言っていたのだろう? 
 カール大帝母語は、ゲルマン語(正確にはフランク=ゲルマン語)だったので、カルルかカールだったろうと言われている。しかし同時に、カール大帝ラテン語も自由に話したという。バイリンガルだったのである。(書くことはあまりできなかったらしい。また、ギリシア語も聞いて理解できたという。)カールの宮廷も、このような二言語併用の状態だった。ただ、このラテン語はすでにかなりフランス語化した発音になっていた。書き言葉としてのラテン語話し言葉であるロマンス諸語の分化が始まっていたのである。

 カールはイングランドの学者アルクインを招き、共通語としての古典ラテン語の教育に力を注いだ。しかし、フランク王国の言語状況は簡単ではなかった。西フランク(のちのフランス)ではフランス語が形成されつつあったが、ケルト語地域も存在していた。また東フランク(のちのドイツ、オーストリア)はゲルマン語地域であり、ラテン語系の言語は話されていなかった。さらに、共通語としてのラテン語教育の充実を図っても、民衆へのキリスト教文化の普及には別の問題があった。各地域の民衆の話し言葉への対応の仕方という問題である。カール時代の教会会議では、「司教や司祭の説教は現地語で」という決議もなされていた。

 以上の、言語状況の簡単なスケッチからもわかるように、「カールの戴冠」によりローマ(ラテン)・ゲルマン・キリスト教の3つの要素が統合されたというのは、やや平板な見方である。カール大帝の時代、ローマ(ラテン)・ゲルマン・キリスト教の3つの要素は、複雑に絡み合っていた。むしろ、中世末から顕在化していった、地域語による文学作品の創造・聖書の翻訳という動きの背景を、この時代に見ることができるだろう。


《参考文献》
 森義信「フランク王国の国家原理」(『講座世界歴史7・ヨーロッパの誕生』[岩波書店]所収)
 小林標ラテン語の世界』(中公新書