現代 オセアニア 【ハワイ王国の滅亡】

★クック来航(1778)から約30年後の1810年カメハメハ大王ハワイ諸島を統一し、ハワイ王国が成立した。

 その後、アメリカ人企業家・宣教師を中心に、白人の移住者が増加した。しかし、その際持ち込まれた伝染病により、ハワイ先住民の人口は、クック来航時の30万人から、1870年代には約6万人に激減してしまった。16世紀後半中南米で起きたことが繰り返されたのだ。また19世紀半ばには、ハワイの土地の4分の3は白人の手に渡り、サトウキビ農園が拡大、そこに必要な大量の労働力をアジア系移民に求めたのである。日本人中国人などのアジア系移民が激増した。(最初の日本人移民は1868年[明治元年]で、後に「元年者」と呼ばれた。20世紀初めまでに21万人の日本人がハワイに渡った。)こうして、18世紀までのポリネシア系ハワイ人による安定社会は、多民族社会に変貌したのである。選挙権は、白人に独占されていた。

 1881年カラカウア王は、打開策を日本皇室と婚姻関係を結ぶことに求めた。膨張するアメリカ白人勢力を牽制しながら、日本と提携することによってハワイ王朝を維持しようとする、必死の戦略だったのである。しかし、日本側の謝絶にあって、この戦略は実を結ばなかった。

 女王リリウオカラニが即位した1891年、すでに王国は危機に瀕していたのである。王権強化を盛り込んだ新憲法の制定を試みた女王は、1893年アメリカによって廃位された。アメリカが正式にハワイを併合したのは、5年後の1898年であった。同年の、スペインからのフィリピン、グアム、プエルトリコの獲得と並んで、アメリカの帝国主義政策を象徴する出来事である。

 女王リリウオカラニは、失意の余生を、イオラニ宮殿に軟禁されたまま送った。彼女は「アロハ・オエ」の作詞・作曲者としても知られる。「あなたにアロハ(あなたを愛しています)」という美しい曲の「あなた」をハワイ(王国)と読み替えれば、女王の真情を読み取ることができるかも知れない。

 なお、ハワイ語では、本来は「ハワイイ」と発音される。英語で Hawaii と書くのも、このためである。「神のいる場所」という意味である。フラも、元来は神々に捧げる踊りであった。

《参考文献》
 山中速人『ハワイ』(岩波新書
 池澤夏樹『ハワイイ紀行・完全版』(新潮文庫