近代 ヨーロッパ 【ワルシャワのマリヤ・スクウォドフスカ】

1878年ポーランドはロシア支配下にあった。ワルシャワの学校で、10歳のマリヤ・スクウォドフスカが、視学官からロシア語で(ポーランド語ではなく)質問されていた。「われわれを統治したもう方は?」マリヤは、少しためらったあと、ロシア語で答えた。「全ロシアの皇帝アレクサンドル2世陛下です。」視学官は満足して去り、マリアはわっと泣き出したという。

 コシューシコらの戦いが敗れポーランドが独立を失ってから、すでに1世紀が経っていた。(アメリカ独立革命フランス革命の時代に、ヨーロッパで独立を失った国があったのである。)アレクサンドル2世は、1861年農奴解放令で有名である。しかしポーランドでは、1863年の対ロシア蜂起(ポーランド史上最も血なまぐさい戦いと言われる)を鎮圧した後、支配を強化し、学校ではロシア語使用を強制していた。言語を奪うことは、民族と文化を根底から否定することにほかならない。少女マリヤは、視学官の前でけなげに振る舞いながら、ポーランド人として深い屈辱を味わったのだった。

 マリヤ・スクウォドフスカは、1891年、24歳の時パリ大学に留学した。4年後ピエール・キュリーと結婚し、マリー・キュリーとなる。(キュリー夫人という呼び方は、もう止めなければならない。一人の人間としての尊厳を損なうからだ。)彼女は、1898年放射性元素ラジウムポロニウムを発見したが、ポロニウムポーランドにちなんで名づけられた。祖国ポーランドへの、彼女の強い思いが表れている。1903年マリーとピエールには、ノーベル物理学賞が贈られた。しかしマリーは、その3年後の、ピエールの事故死という悲劇を乗り越えねばならなかった。

 ポーランドが独立を回復したのは、1918年のことである。ロシア、プロイセンオーストリアによる第1回ポーランド分割(1772)から、実に146年ぶりのことであった。マリー=キュリーは51歳、長年の放射線研究のため身体は蝕まれていた。マリーは、病苦と闘いながら、それでもなお研究に情熱を傾けていたのである。

《参考文献》
 高木仁三郎マリー・キュリーが考えたこと』(岩波ジュニア新書)