近世 ラテンアメリカ 【ジャマイカの苦難】

★ジャマイカは、日本ではレゲエやコーヒー豆ブルーマウンテンで知られてきたが、かつてイギリスの植民地であった(1670〜1962)。2012年ロンドン・オリンピックにおける、ウサイン=ボルトの3冠は、ジャマイカの人々やイギリスにいる60万人のブラック・カリビアンに深い感慨と大きな勇気をもたらしたに違いない。

 カリブ海に浮かぶ島ジャマイカが植民地になるきっかけをつくったのは、あのクロムウェルであった。クロムウェルは、1655年(アイルランド征服の6年後にあたる)、スペイン領だったジャマイカに艦隊を派遣し占領した。(残念ながら、この出来事は、教科書にはほとんど記載されない。)そしてジャマイカには、18世紀にかけて、中南米最大の黒人奴隷制砂糖プランテーションが展開されたのだった。少数の白人監督たちとプランテーションで強制労働に従事させられる大量の黒人奴隷という、いびつな社会が続いたのである。(カリブ海域全体が、このような社会となっていた。)

 プランテーションでの労働は厳しかった。サトウキビ苗植え付け時と収穫時は、集中的な重労働となった。特に収穫とそれ以後の工程(刈り取り→運搬→糖汁の圧搾→糖汁の煮沸・濃縮→糖蜜の樽詰め→出荷)は4ヵ月続き、深夜労働や徹夜もまれではなかった。奴隷たちの体力は消耗し、寿命を縮めることとなった。ジャマイカには常時約30万人の奴隷が働いていたが、死亡率は高く、常に新しい奴隷を補充しなければならない状況だった。
 植民地における過酷な奴隷制が、イギリスの生活革命(砂糖入り紅茶の普及、コーヒーハウスの文化)を支えていたのである。

 反乱や逃亡が起きないはずはない。カリブ海域の奴隷反乱としては、18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス領サンドマング(ハイチ)の反乱がよく知られるようになった。ジャマイカでも、18世紀から19世紀前半にかけて、奴隷反乱や逃亡奴隷の抵抗が続いていた。特に、1831年末から32年初めにかけての奴隷反乱(リーダーの多くはプロテスタントだったという)は、イギリス本国に大きな衝撃を与えた。この衝撃が、イギリス植民地における奴隷制の廃止(1833)という決定をもたらしたのだった。

《参考文献》
 川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書)
 西出敬一「プランテーション奴隷の生と死」(『講座世界歴史17』[岩波書店]所収)

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