近世 ヨーロッパ 【旅するデカルト】

◆フランス人デカルト(1596〜1650)は、名門ラ・フレーシュ学院(イエズス会が設立)で10歳から18歳まで学んだ。1610年アンリ4世が狂信的旧教徒に暗殺されると(16世紀後半のユグノー戦争の余燼はまだくすぶっていた)、遺言により、アンリ4世の心臓はラ・フレーシュ学院の礼拝堂に納められた。在学中のデカルトは、その式典に参加していた。フランスはルイ13世と宰相リシュリューの時代に入ったが、王権の確立はまだ先のことであった。

 17世紀のヨーロッパは危機の時代と言われる。ルネサンスの輝きは、すでに失われていた。神聖ローマ帝国が戦場となった三十年戦争、「ピューリタン革命」と呼ばれるブリテン諸島の内戦など、戦乱が相次いだ。ガリレオは宗教裁判にかけられ、魔女狩りが横行していた。また、寒冷化により、凶作が続いていた。そのような激しい過渡期を、デカルトは生きていたのである。(オランダの繁栄は例外的であった。)

 学業を終えたデカルトの心の中には、「真と偽を区別することを学びたいという、何よりも強い願望」(『方法序説』、谷川多佳子訳、以下同じ)が渦巻いていた。そして、「世界という大きな書物」に学ぼうと、旅に出たのである。1618年、22歳の時であった。

「一人で闇のなかを歩く人間のように、きわめてゆっくりと進み、あらゆることに周到な注意を払おう。そうやってほんのわずかしか進めなくても、せめて気をつけて転ぶことのないように、とわたしは心に決めた。」
「数年を費やして、世界という書物のなかで研究し、いくらかの経験を得ようと努めた後、ある日、わたし自身のうちでも研究し、とるべき道を選ぶために自分の精神の全力を傾けようと決心した。このことは、自分の国、自分の書物から一度も離れなかった場合にくらべて、はるかにうまく果たせたと思われる。」

 デカルトは、三十年戦争(1618〜48)に志願兵として加わったこともあった(旧教軍の方であった)。

 「その頃(1619年)わたしはドイツにいた。いまなお終わっていない戦争がきっかけで、呼び寄せられたのだ。」

 もっとも、デカルトが実際に戦闘に参加したかどうかは定かでない。デカルトの関心は「世界という書物」に学ぶことであり、自分の哲学と人生の基盤を見つけることであった。この頃デカルトが見たという夢には、彼の内面の闘いが表れている。夢に詩華集が出てきて、ページを開くと、次の詩句が読めたという。

 「ワレ、イカナル人生ノミチヲ歩ムベキカ」

 デカルトにとって、人生と哲学は一体のものであった。そしてデカルトは、まもなく、学問の基礎と自分の使命を見いだしたのである。「われ思う、ゆえにわれあり」で有名なデカルトの哲学は、危機の時代と青春の彷徨の中から生み出されたのである。1637年に出版された『方法序説』は、自分の哲学と人生の基盤を見つけるまでの、旅の記録でもあった。

 これ以降、女王の招きで滞在していたスウェーデンで亡くなるまで、デカルトがフランスで過ごした年数はたいへん少ない。最も長く住んだのは、オランダであった。
 

《参考文献》
 デカルト方法序説』(谷川多佳子訳、岩波文庫
 野田又夫デカルトの生涯と思想」(世界の名著22、解説)
 田中仁彦『デカルトの旅/デカルトの夢』(岩波書店
 原田佳彦「いま、なぜデカルトか」(「現代思想」1990年5月号所収)