近代 ヨーロッパ 【自由の女神 −フランス革命〜ドラクロワ−】

◆「民衆を導く自由の女神」は、フランスを代表する絵画である。ロマン派の旗手ドラクロワが、1830年七月革命を題材に、その年のうちに描いた。七月革命では、反動的なシャルル10世のブルボン復古王政が倒れ、ルイ=フィリップの立憲王政が成立した。しかし、大きな三色旗を右手で高く掲げ、左手に銃を持ち、屍を踏み越えて前進する自由の女神は、立憲王政を超えて共和政を呼びかけているようにさえ見える。ルイ=フィリップ王は、この絵を買い上げたが、一度も公開しなかったという。「民衆を導く自由の女神」が一般に公開されるようになったのは、第二共和政が成立した二月革命(1848)以降のことであった。

 自由の女神のイメージはいつできたのだろうか?

 フランス革命期、自由は最初「自由の木」やフリジア帽(ドラクロワの女神もかぶっている)で表現されることが多かった。「自由の木」は豊穣を祈る伝統的な「5月の木」に革命のイメージを重ね合わせたものであり、フリジア帽はサンキュロットがかぶっていたものであった。一方、絶対王政が父なる国王のイメージだったのに対し、自由と共和国は女性としてイメージされて描かれ、マリアンヌという名で呼ばれた。マリアンヌは、聖母マリアを想起させないでもないが、「マリー・アンヌ」という庶民的な名前に由来しているという。胸をはだけた姿には豊穣と母性が託されているが、民衆的で野性的なイメージをも持っていた。1792年の8月10日事件により王権は停止されるが、その記念メダルには、翼を持つ、戦闘的な自由の女神が描かれている。ドラクロワが描いた自由の女神は、美しくたくましい戦闘的な女神を受け継ぐものであり、同時に「母なる祖国」を象徴するものだったのである。

 しかし、自由と祖国が女神として表象されたにもかかわらず、「女性および女性市民のための権利宣言」を書いたオランプ・ド・グージュの処刑(1793)に表れているように、フランス社会でも女性の権利は抑圧された。自由も平等も、男性市民のものであった。友愛さえ(現在の日本語の語感とは違って)、男性同士の友愛を指していたのである。それは、作家ジョルジュ=サンド(ショパンの恋人であった)などの活躍はあったものの、ドラクロワの時代にも変わらなかった。フランスで女性参政権が実現するのは1944年のことであり、日本とほとんど変わらない。
 
 自由の女神は、女性の権利の拡大には結びつかなかった。自由の女神は、むしろ、男性市民を鼓舞するものとして描かれたのである。自由と祖国を女神として表象することで求められたのは、祖国のために気高く戦う男性市民だったのかも知れない。

《参考文献》
 ルーヴル美術館民衆を導く自由の女神」(www.louvre.fr/jp/)
 多木浩二『絵で見るフランス革命』(岩波新書
 長谷川博子「歴史・ジェンダー・表象 マリアンヌの肖像と兵士の創造」(義江彰夫ほか編『歴史の文法』[東京大学出版会]所収)

フランス革命期の「理性の女神」については 【フランス革命と祭典】