近世 ヨーロッパ 【啓蒙・ルソー・女性】
★18世紀を中心として、ヨーロッパは啓蒙の時代を迎えた。知識を拡大して無知蒙昧な状態をなくし、不合理を正そうとする考え方の広がりである。日本語で啓蒙と訳されている語は、英語でもフランス語でもドイツ語でも、「光」や「照らすこと」を意味していた。啓蒙とは、「理性の光」で無知の暗闇を照らし、真理を明らかにすることだった。1751年から76年までディドロとダランベールによって刊行された『百科全書』全35巻は啓蒙を代表する出版物だったが、その扉絵には、眩い光の中で真理の女神がヴェールを脱ぎ捨てようとする場面が描かれていた。啓蒙思想家たちは、人間の理性と文明の進歩への信頼を共有していたのである。
フランスのそのような言論界に、ルソー(1712〜78)は『学問芸術論』(1750)によって一石を投じた。
「われわれの魂は、われわれの学問と芸術が完成に向かって前進するにしたがって腐敗した。(中略)人々は、学問・芸術の光がわれわれの地平線上にのぼるにつれて、美徳がのがれ去るのを見た。」(平岡昇訳)
ルソーは、ディジョン・アカデミー賞に応募して『学問芸術論』を書き、一等に当選したのだった。彼は、アカデミーの論題「学問と芸術の再興は習俗の純化に寄与したか」に、「それとも腐敗させることに寄与したか」という言葉を巧みに加え、「学問・芸術の進歩は人間性を堕落させた」という逆説をレトリカルに論じたのである。
『学問芸術論』はセンセーションを引き起こし、翌年の『百科全書』序論でダランベールがこれに反論したほどであった。しかし、ルソーは「反啓蒙」、「反文明」の思想家だったのだろうか。ことは、それほど単純ではない。ルソーの背後には啓蒙の言論・文化空間が広がっており、そのなかで成功をつかんだ思想家でもあった。
啓蒙を支えていたのは、人々の読み書き能力の向上である。フランスの識字率は、17世紀末の21%から革命前には36%に向上していた(男性47%、女性27%)。パリでは全国平均より高く、男性66%、女性62%であった。男女の差のないことが特徴的である。識字率の向上は、初等教育の普及や出版文化の発展と結びついていた。書物や雑誌の発行点数は、18世紀初めの年間1000点から世紀後半にはその2倍になり、非合法出版も盛んだった。さらに、ビラや張り紙、手書きの新聞などによっても情報が飛び交うようになっていた。このような中で、カフェやサロン、読書クラブなどが発達したのである。文字の読み書きができない民衆も、文字文化と無縁だったわけではない。農村でも「夜の集い」で本を読み聞かせる習慣が広がり、文字文化との接触が広がっていた。
18世紀はまた「手紙の世紀」と呼ばれ、手紙による交流が盛んだった。セヴィニエ夫人の娘に宛てた私信が死後出版されるという出来事(1725)は、これを象徴的に表している。そのような中で、書簡体の小説や思想書が広く読まれたのだった。モンテスキューの『ペルシア人の手紙』(1721)、ヴォルテールの『哲学書簡』(1734)、そしてルソーの『新エロイーズ』(1761)が、その代表的なものである。
ルソーは、啓蒙の言論・文化空間の中で成功し、崇拝され、妬まれ、批判されたが、その中で物書きとして生きることを自覚的に選んだ最初の人間であった。書くことと読者が読むこととの関係を意識した最初の作家・思想家であった。
「彼は明らかに、常に自分の著作を読者に対する一つの問いかけとして描き出している。ルソーの作品は思考の試みであり、また思考されたエクリチュールの試みであって、その目的は思考を促すことなのである。」(ヤニック・セイテ、折方のぞみ・越森彦訳)
自由について、平等について、人間の本性について、政治体制について、教育について等、ルソーはあまたの問いを発し続けた。ただ、女性については、問いを発しただろうか? テレーズは、ルソーにとってどういう存在だったのだろうか? 『エミール』(1762)の中でルソーは、男女の違いについて次のように述べた。
「一方は能動的で強く、他方は受動的で弱くなければならない。(中略)女性は、気に入られるように、また、征服されるように生まれついているとするなら、男性にいどむようなことはしないで、男性に快く思われる者にならなければならない。」「女性は多くのことを学ばなければならない。しかし、女性にふさわしい知識だけを学ぶべきだ。」(今野一雄訳)
このような女性観は、実は啓蒙の文明観そのものであった。作家フェヌロンは、すでに17世紀末に『女子教育概論』を著し、富裕な階層の子女の教育の目的は「家を管理し、夫を幸福にし、子どもたちを立派に育てる」ことにあると述べていた。このような考え方は、かたちを変えながら20世紀まで続いたのである。また医者のピエール・ルセルは、『女の肉体および精神組織について』と題する本(1775)の中で、発達しつつあった産科学に基づき、女は「生まれながらにして家庭的」であると述べていた。「子ども」が「小さな大人」ではなく、特別な存在として意識されるようになるとともに、「母であること、母になること」に高い価値がおかれるようになっていった。啓蒙期にこそ、文明や医学の権威を借りながら、ヨーロッパ社会のジェンダー秩序が形成されていったのである。『百科全書』の執筆者に、女性は一人もいなかった。
ルソーは、アンリエットという女性の読者から、数通の手紙を受け取っていた。1764年から65年にかけてのことである。(『告白』を執筆していた時期であり、ヴォルテールが捨て子を暴露した時期でもあった。)アンリエットという女性についてはパリに住んでいたこと以外は何もわかっていないが、彼女の綴った文章は、18世紀の女性の文章とは思えないほどである。
「わたくしのこの魂には、人生を織り成すあらゆる悲しみによって、苦しみがかくも深く刻み付けられたので、あたかも苦しみが染みついてしまったかのようです。(中略)目覚めのときは、この世で一番ぞっとする瞬間です。激しく胸が締め付けられる感覚で眠りから引き離され、鋭い苦しみが射し込んでまだまどろんでいる感覚が破られ、最後に目が覚めてしまったことに対する恐れと怯えが続きます。これほど辛い感情によって日々の生活に連れ戻されたわたくしは、森羅万象の中でまったく一人きりであると感じ、(後略)」(桑瀬章二郎訳)
かなり長文の手紙には、一人の女性の心理状態が繊細に表現されている。書簡体小説の影響がうかがわれるが、その切々たる自己表現には感動を覚えるほどである。しかし、ルソーの3通の返信は、残念ながら、アンリエットの真摯な真情吐露に応えてはいないように思われる。アンリエットが訴えていたのは、ジェンダーの問題でもあったのだが。
ルソーの返信の素っ気なさは、『エミール』で述べられたような女性観に関連しているのだろうか? ルソーが読者として考えていたのはあくまで男性だったのだろうか? テレーズとの関係や捨て子事件も謎であるが、アンリエットへの対応を考えると、ルソーの社会構想を考える際も一定の留保が必要ではないだろうか。『社会契約論』などで使われる「人民」という語にも、女性は含まれていなかったのではないかと思われるのである。
ルソーを、その内面に分け入ろうとするだけでなく、啓蒙の言語・文化空間の中で考えることが大切だと思われる。その時、フランス革命におけるルソーの思想の位置も、もう少し明らかになるのではないだろうか。
《参考文献》
ルソー『学問芸術論』(平岡昇訳、『世界の名著30』[中央公論社]所収)
ルソー『エミール』(今野一雄訳、岩波文庫)
平岡昇「ルソーの思想と作品」(『世界の名著30』[中央公論社]所収)
桑瀬章二郎篇『ルソーを学ぶ人のために』(世界思想社)
吉岡知哉・坂倉裕治・桑瀬章二郎・王寺賢太「座談会・ルソーの不在、ルソーの可能性」(「思想」2009年11月号[岩波書店]所収)
ヤニック・セイテ「ルソー:思考すること、させること」(折方のぞみ・越森彦訳、「思想」2009年11月号[岩波書店]所収)
「ルソー‐アンリエット書簡」(桑瀬章二郎訳、「思想」2009年11月号[岩波書店]所収)
柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか』(山川出版社)
長谷川まゆ帆『女と男と子どもの近代』(山川出版社)
弓削尚子『啓蒙の世紀と文明観』(山川出版社)