現代 ヨーロッパ 【ハプスブルク帝国の黄昏】
■オスマン帝国の第2次ウィーン包囲(1683)の後、ウィーンに最初のカフェができた。オスマン帝国軍の置き去りにした大量のコーヒー豆を元手に、あるセルビア人が開いたという。ウィーンのカフェは、ロンドンのコーヒーハウスやパリのカフェと並んで、ヨーロッパ的生活の象徴となった。コーヒーとザッハトルテを味わいながら雑誌や新聞を読むという光景は、「夢の都」とも呼ばれたウィーンのくつろぎそのものを表していた。世紀末に青年時代を迎えた、中上流階級の子弟たちの「芸術的生活」のゆりかごでもあった。しかしウィーンのカフェは、ロンドンやパリのような政治文化は生み出さなかった。多くの人々は、オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合(1908)の新聞記事を、スポーツ記事と同じように読み飛ばした。ワルツやオペレッタと同じように、カフェは「夢の都」の過酷な現実からの退避所であった。ハプスブルク帝国を蝕んでいた二重性の象徴であった。うわべの安定と輝かしさが、その下に横たわる、政治的・民族的・文化的混沌をおおい隠していたのである。
「この国は、憲法上からは自由主義であったが、カトリックによって統治されていた。カトリックによって統治されてはいたが、人々の生活は自由思想を奉じていた。法の前にすべての市民は平等であったが、万人が等しく市民というわけではなかった。議会はあったが、その自由を大いに行使して、いつも閉会されていた。……それは、辛うじてどうにかこうにか自分自身につき合っている国であった。そこでは、人々は消極的に自由で、絶えず自分自身の存在根拠が薄弱であるという感情に悩まされて、……大いなる幻想にとり巻かれていた。」(ムージル)
1848年の三月革命でメッテルニヒが失脚した後、フランツ・ヨーゼフ1世が18歳で即位した。第一次世界大戦中の1916年に亡くなるまで、実に68年にわたって、激しく揺れ動くハプスブルク帝国(オーストリア帝国、1867年からはオーストリア・ハンガリー帝国)を支えようと努めた。世紀末ウィーンの壮麗な外観は、フランツ・ヨーゼフによって造られた。城壁があったところにはリンク通りができ、市庁舎、帝国議事堂、帝室オペラ・ハウス、帝室劇場が次々と建てられた。ウィーンはブルジョワジーの都市であった。軍事的にはプロイセン(→ドイツ)の優位が明らかであったが、19世紀半ばからオーストリアの産業と金融は大いに発展した。その象徴が1873年のウィーン万博開催であったが、その年の株式暴落から90年代半ばまでは不況が続いた。
一方、産業の発展とともに増加した労働者階級の生活は悲惨であった。特にウィーンの住宅問題は深刻で、急激な人口増加(1857年に48万人→1910年には203万人)に追いつかなかった。ウィーンの外縁部には労働者地区が広がり、一戸に複数世帯が入居しているのが普通であった。労働者の賃金の7割は、食費とアルコール代に使われた。ウィーンの死者の数は、ロンドンやパリの2倍だった。19世紀末から大衆政党の活動が広がりを見せるようになったのは、遅いくらいであった。男子普通選挙は、1907年に実現した。
ハプスブルク帝国もウィーンも、多民族社会であった。ドイツ人は3分の1強を占めているに過ぎなかった。帝国は、ハンガリー人、チェコ人、スロヴァキア人、ポーランド人、ウクライナ人、イタリア人、ルーマニア人、クロアチア人、スロヴェニア人、セルビア人、ユダヤ人などで構成されていた。ハンガリー側も他民族であり、オーストリアとハンガリーのアウスグライヒ(妥協、均衡)だけでは解決は困難だった。民族間の軋轢を、帝国はフランツ・ヨーゼフ帝の存在で和らげようとした。皇帝の写真が帝国の至る所に飾られていた。しかし、ナポレオン以後の民族主義の高まりは、さらに大きなうねりを見せていたのである。
しかもユダヤ人の問題が、さらにウィーンと帝国を複雑にした。19世紀末から20世紀初めの世紀転換期のウィーンでは、法律顧問の60%、商人の60%、ジャーナリストの40%、医学生の40%がユダヤ系であった。ほとんどは、キリスト教に改宗したユダヤ人であった。ユダヤ人社会が帝国の一翼を担っていたのである。このような中で、激しいユダヤ人攻撃で小市民層の支持を得ていたのが、ウィーン市長カール・ルエーガーであった。皇帝フランツ・ヨーゼフはルエーガーを市長として認めなかったが、1897年に5度目の当選を果たすと皇帝も承認せざるを得なかった。同じ年、ウィーンで活躍していたテオドール・ヘルツルが、第1回シオニスト会議をバーゼルで開いていた。そして20世紀初頭、ウィーンでどん底の生活を送りながら、ユダヤ人への憎悪をたぎらせていたのが、ヒトラーであった。
1897年は、画家クリムトたちが帝室アカデミーから出て、分離派を結成した年でもあった。作曲家マーラーが宮廷歌劇場の総監督に任ぜられた年でもあり、評論家カール・クラウスが「カフェに巣くう文学グループ」若きウィーン派への批判を開始した年でもあった。3年後には、フロイトが『夢の解釈』を出版した。フロイトは性の深層を暴いたが、ウィーンの中上流階級はこれを黙殺した。根強い家父長制の下で、性的問題は抑圧された。
まるで「夢の都」の破局を告げ知らせるように、皇帝フランツ・ヨーゼフの家族に悲劇が起こった。1889年、皇太子のルドルフが男爵令嬢とともに情死したのである。悲痛の皇帝は、皇位継承者として、弟の長男フランツ・フェルディナントを指名した。そしてその10年後には、妃のエリーザベトが暗殺された。
悲劇はこれで終わらなかった。1914年、排外主義的主張を繰り返していたフランツ・フェルディナントが、妻とともにサライェヴォで凶弾に倒れたのである。第一次世界大戦が始まった時、フランツ・ヨーゼフ帝は84歳になろうとしていた。舞踏会で世界一美しい軍服(詩人ホフマンスタールも軍服の写真を残している)を披露していたオーストリア将兵たちは、今や無残な死体となって泥水の中に横たわっていた。
1918年、帝国は崩壊した。最後の皇帝となったカールは、息子のオットーのためにも生き延びる道を選び、家族とともにスイスのハプスブルク家発祥の地へ向かった。この年、画家クリムトが亡くなった。「夢の都」の死を予感していた画家シーレも亡くなった。一方、大戦に従軍していたヴィトゲンシュタインは、『論理哲学論考』の最終稿を完成していた。
1989年5月、ハンガリーとオーストリアの国境にあった鉄条網が双方から撤去された。東ドイツから逃れる市民を助けるためであった。多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア経由で西ドイツに脱出した。プラハやワルシャワ経由で脱出した人々もたくさんいた。「鉄のカーテン」と東欧社会主義政権の崩壊が始まっていたのである。東ドイツ市民の脱出を助ける運動は、「汎ヨーロッパ・ピクニック計画」と呼ばれた。オーストリアとの国境に近いハンガリーの町ショプロンには西側の人々が集まり、東ドイツ市民を助けた。その中心に、オットー・ハプスブルクの姿があった。
《参考文献》
江村洋『ハプスブルク家』(講談社現代新書)
S.トゥールミン、A.ジャニク『ウィトゲンシュタインのウィーン』(藤村龍雄訳、平凡社ライブラリー)
平田達治「世紀転換期のメルヘン都市ウィーン」(「ユリイカ」1988年7月号、青土社)
G.コラー「悲惨と仮象」(原研二訳、「ユリイカ」1988年7月号、青土社)
ローベルト・ムージル「カカーニエン」(須永恒雄訳、池内紀編『ウィーン・聖なる春』[国書刊行会]所収)
森本哲郎『ウィーン』(文藝春秋)
羽場久美子『「中欧」アイデンティティの夢と現実』(「思想」2012年4月号、岩波書店)
大津留厚『ハプスブルク帝国』(山川出版社)