近世 ヨーロッパ 【ユグノー戦争とモンテーニュ】

ユグノー戦争(1562〜98)と呼ばれる宗教戦争・内戦は、なぜ起こったのだろうか。背景を、三つ考えたい。

 一つ目は、主権国家形成期だったことである。この内戦はイタリア戦争終結(1559)直後に始まった。イタリア戦争から、ヨーロッパは主権国家形成期に入るとされるが、イタリア戦争終結を祝う騎馬槍試合でアンリ2世が負傷し死亡したことは、象徴的であった。アンリ2世の妃がカトリーヌ・ド・メディシス(1519〜89)である。カトリーヌは、長男・次男(シャルル9世)・三男(アンリ3世)の政治に深く関与し、貴族間の権力闘争と複雑に絡み合った。ユグノー戦争は、主権国家形成期のフランス王権の試練そのものであった。

 二つ目は、16世紀前半のフランスの宗教状況である。ルターの改革開始(1517)の頃、フランソワ1世治世下のフランスには穏健な「福音主義」派があった。カトリックにとどまりながら聖書をよりどころとする人々で(エラスムスと共通する)、神学者ルフェーブル・デタープルがその思想的中心であった。デタープルは聖書の原典批評を行い、新・旧約聖書のフランス語訳を完成させていた。1525年、このグループはパリ大学神学部とパリ高等法院の圧力で解消を余儀なくされたが、この時期はルターの著書のフランス語訳も出版されており、「福音主義」は一定の広がりを見せていた。(同時代の文学者ラブレーの作品にも、「福音主義」の影響が認められる。)その背景には、マルグリット・ド・ナヴァルの「福音主義」庇護があった。作家でもあったマルグリットはフランソワ1世の姉で、デタープルは晩年を彼女の庇護の下で送ったのだった。
 しかし、1534年の「檄文事件」により、カトリック対反カトリックの対立は激化することになった。カトリック教会のミサについて嘲笑・罵倒する張り紙がパリ中に出回り、アンボワーズ城のフランソワ1世の寝室からも発見された事件だった。この事件は、「福音主義」よりも急進的な人々が多数存在することを示していた。王は態度を硬化させ、異端摘発が強化された。カルヴァン派の成立以前から、厳しい宗派対立があったのである。

 三つ目は、宗教改革が第二の時期に入ったことである。ルター派は1555年のアウクスブルクの和議でその地位を確立し、カルヴァン派の勢力伸長とカトリック改革の動きが焦点となった。1541年、スイス・ジュネーヴにおけるカルヴァンの改革が開始されるが、この年はカルヴァンの『キリスト教綱要』のフランス語版が出た年でもあった。カルヴァンジュネーヴで厳しい神政政治をしくことになる。カルヴァン主義が多くの人々の支持を得たのは、世俗の職業生活におけるキリスト教霊性の保持という点で革新的だったからである。フランスにおけるカルヴァン派ユグノー)の増加の中で、カルヴァンは、1555年からジュネーヴで養成した牧師をフランスに送り込み、ユグノーの全国的組織化に成功する。ユグノーは南フランス一帯に多く、北フランスではパリなど大都市に多かった。フランスの全人口の10%を占めるだけであったが、新たなキリスト教社会の建設を志していた。
 一方カトリック側は、この時期にトリエント公会議を開き(1545〜63)、態勢立て直しを図った。ロヨラザビエルたちのイエズス会は、1540年に修道会として教皇から認可され、カトリック側の刷新の中核勢力となった。イエズス会は、フランスでも1560年代から活発に活動していたのである。

 1562年から始まった、カトリックユグノーの戦いは、断続的に36年に及んだ。特に1572年の、カトリックによるユグノーの大虐殺(聖バルテルミーの虐殺、パリだけでも3000人が殺された)は、両派の対立を決定的にした。この事件は、両派の和解と思われた、ユグノーの領袖アンリ・ド・ナヴァルブルボン家)とカトリーヌ・ド・メディシスの娘マルグリットとの婚礼の直後に起きたのだった。アンリ・ド・ナヴァルは囚われの身となり、強制的にカトリックに改宗させられた。しかし、4年後に脱出したアンリは、新教に戻り、四分五裂した人心を統一することを考えるようになったと言われる。(なお、アンリの祖母が、マルグリット・ド・ナヴァルであった。)

 ユグノー戦争中の1581年から85年まで、ボルドーの市長を務めた人物がいた。すでに『エセー』第Ⅰ巻・第Ⅱ巻を上梓していたモンテーニュ(1533〜92)である。ボルドー市は一貫してカトリックの立場に立っていたが、新旧両派の和解に心をくだいていたのがモンテーニュであった。84年、アンリ・ド・ナヴァルは、そのモンテーニュの邸を訪れた。1泊したアンリは、モンテーニュと何を語り合ったのだろうか? アンリは87年にもモンテーニュのシャトーを訪れており、二人の間に精神的な絆があったことは間違いない。

 85年に市長の職を終えたモンテーニュは、『エセー』第Ⅲ巻の執筆を始めた。第Ⅲ巻には、次のような一節がある。

 「何という異常な戦争だろう! 世の常の戦争は外に向かってなされるのであるが、今度の戦争は自分に向かってなされ、自分の毒をもって自分を咬み自分を殺している。それは、はなはだ悪性で破壊的であるから、他のものとともに自分自身を滅ぼす。……戦争となると、どんな規律も消えてなくなる。それは暴動を鎮めようとしてやってくるが、かえって暴動に充満している。反逆を罰しようとしてやってくるが、自ら反逆の模範を示している。……我々はいったいどうなるのか。」(関根秀雄訳)

 1589年、アンリ3世が暗殺されると、アンリ・ド・ナヴァルは王位継承権を手にした。しかし、アンリはローマ教皇から破門されており、パリ大学神学部からも異端宣告を受けていた。さらにパリ市民も新教の王を戴くのに反対しており、王位を狙う一門もあるという状況であった。90年、アンリは数度にわたりモンテーニュに顧問就任要請をしたが、モンテーニュはこれを謝絶している。2年後の92年、モンテーニュは亡くなった。ユグノー戦争は、モンテーニュの59年の生涯の大半を占めていたのである。

 93年、アンリは新教を棄てる旨の宣言を行い、サン・ドニ教会で改宗の儀式を済ませ、翌年にはシャルトル大聖堂戴冠式を行い、正式にアンリ4世となった。そして、98年にはナントの王令を出し、ユグノーの信教と公民権を認めた。ここに、内戦は終結したのだった。このようなアンリ4世の支持基盤となったのは、内戦後期から力を増したポリティーク派であった。彼らは、諸外国の介入を恐れ、フランス王国の統一を最優先すべきと考えた人々である。王権の下で秩序の回復を図ろうとするポリティーク派の中には、国家主権の理論を定式化したジャン・ボダンもいた。
 こうしてフランスでは、血みどろの内戦の中から、主権国家が姿を現した。

 モンテーニュは、ポリティーク派ではなかったが、ユマニスムの立場から内戦を憂え、アンリ・ド・ナヴァルの精神的支えとなった。日常生活でカトリックの敬虔さを欠いたことはなかったが、宗教的激情からは遠く離れていた。モンテーニュの内面は、ギリシア・ローマの古典に深く養われていた。しかも、そのユマニスムは、市政の激務とも両立していたのである。

 碩学渡辺一夫は、カルヴァンについての文章の中で、次のように述べていた。

 「ユマニスムは、人間をゆがめる一切のものを尋ね続け批判し通す、人間の貴重な心根でしょう。ユマニスムは、思想や制度に付き添う注意深い母親なのです。」
 
 この言葉は、モンテーニュにこそふさわしい。

《参考文献》
 渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫
 荒木昭太郎「モンテーニュの人と思想」(『世界の名著19・モンテーニュ』[中央公論社]所収)
 長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『ヨーロッパ近世の開花』(中央公論社版世界の歴史17)
 近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『講座・世界歴史16 主権国家と啓蒙』[岩波書店]所収)
 高澤紀恵「<アンシアン・レジーム>のフランスとヨーロッパ」(谷川稔ほか編『近代フランスの歴史』[ミネルヴァ書房]所収)

※関連ページ ➡ 世界史ブックガイド⑬【保苅瑞穂『モンテーニュ よく生き、よく死ぬために』】