近代 南アジア 【インド大反乱とイギリス】
★長崎暢子の『インド大反乱 一八五七年』は、印象的な叙述から始まっていた。
『五月十日の昼下がり、、メーラト基地に駐屯する一人のインド人兵士がソフィーという馴染みの娼婦におそるべきニュースをささやいた。
「今日、俺たちは反乱するぞ」』
インド大反乱(1857〜59)は、デリー北方メーラト基地のシパーヒー(イギリス東インド会社のインド人傭兵)の武装蜂起から始まった。直接のきっかけは、東インド会社が導入した新式銃の弾丸とその装填法であった。弾丸は油紙で包まれており、油紙の端を噛み切って装填する仕組みであったが、その油は牛脂や豚脂であるという噂が広まったのであった。シパーヒーたちは上層カースト出身のヒンドゥー教徒や上層のムスリムだったが、どちらの宗教にも抵触する装填方法だったのである。こうして、東インド会社への非協力の雰囲気がシパーヒーたちに広がっていた。折しも、プラッシーの戦い(1757)からちょうど100年目にあたっていた。
プラッシーの戦いで、イギリス東インド会社軍がフランス東インド会社軍・ベンガル太守連合軍を破ったことは、イギリス・インド関係の決定的な転機となった。この戦いの時、クライヴは初めて2000人のインド人傭兵を採用したのである。さらに1765年、東インド会社はベンガル地方などの徴税権を獲得し、ここから、東インド会社が領土支配の機構に転化していくプロセスが始まったのであった。
ただ、18世紀後半までは、イギリス本国にとってベンガル地方は数ある勢力圏の一つであり、インドでの成功者は成り上がり者として遇されていた。当時のイギリスでは、ジャマイカなどのカリブ海植民地のプランターの方が勢力を持っていた。しかし18世紀末から(マカートニーが乾隆帝に貿易拡大を要求した時期である)、積極的にインドへ人材を送り込むようになった。インドは、産業革命を支える綿花供給地として、重要になっていたのである。東インド会社は1805年、ジェントルマン階級の子弟を教育するパブリック・スクールを、新たに開校した。卒業生はオクスフォード大学に進み、オクスフォードがインド官僚の供給源となっていく。1200名ほどの高級官僚集団が、インド統治に当たっていた。彼らは、「イギリスによるインド民衆の文明化」という使命感さえ持っていた。
1833年、東インド会社の全商業活動は停止され(貿易会社としては赤字が続いていた)、完全な統治機関となった。自由貿易体制の進行の結果であったが、1833年はイギリス植民地での奴隷制度が廃止された年でもあり、カリブ海植民地の役割の低下とインドの植民地としての重要性増大を表していた。インドでのアヘン栽培と中国への密輸出は増加の一途を辿り、1830年代にはアッサム茶の栽培が始まった。
反乱の当初、ヒンドゥー教徒とムスリムの共闘が成立していた。シパーヒーたちはデリーに進軍し、ムガル皇帝を自分たちの指導者に祭り上げた。インド全体からイギリスを追い払うという目標が鮮明になったことを示してはいたが、これは時代錯誤であった。ムガル皇帝は反乱軍に擁立されながら、イギリスとも陰で交渉していた。また、反乱軍からは有力な指導者が現れず、内部分裂を起こしていくことになる。地方の統治にも目が向かなかった。イギリス側は「ムスリムは殺されるが、ヒンドゥーは助かる」などというデマを流し、両者の分断にも成功した。デリーの反乱軍は、4ヵ月で鎮圧された。
しかし、北インド全域に広がった蜂起は、その後1年余り続いた。1858年のジャーンシー王妃ラクシュミー・バーイーの戦いは有名である。ラクシュミー・バーイーらを敗退させたのは、ボンベイに上陸した、本国からの陸軍増援部隊であった。大反乱中の1858年、イギリスは東インド会社を解散させ、本国による直接統治に踏み切った。同年、名目的に続いてきたムガル帝国も滅びた。
大反乱鎮圧直後の1860年、インドには6万2000人のイギリス人兵士と12万5000人のインド人兵士がいた。イギリス帝国全体の兵力の半分を占めていた。インドは、イギリス帝国の世界経済システムにとって、極めて重要な植民地になっていたのである。イギリスがスエズ運河を手に入れた(1875)のも、インド支配の重要性からであった。
インド全域の支配権はヴィクトリア女王に移り(1877年女王がインド皇帝となった)、インド総督はイギリス政府の官僚となった。インド人懐柔策もとられた。インド人エリートに統治の一端を担わせるようになり、下級役人のポストの多くがインド人に開放された。また商品の輸送の面からだけでなく、治安維持・軍隊の迅速な移動の面からも、鉄道建設が加速した。1888年に完成した、華麗なボンベイ・ヴィクトリア駅は、イギリスのインド支配の象徴であった。
インド大反乱は、敗北した。しかし、その半世紀後(1906)、国民会議派はカルカッタ大会でスワデーシなど4綱領を採択することになる。ただ、同年、全インド・ムスリム連盟も結成され、ヒンドゥー教徒とムスリムの共闘は実現しなかったのだった。
《参考文献》
長崎暢子『インド大反乱 一八五七年』(中公新書)
加藤祐三・川北稔『アジアと欧米世界』(中央公論社版世界の歴史25)
秋田茂『イギリス帝国の歴史』(中公新書)