古代 オリエント・地中海世界 【図書館が生まれた】

★言葉と記憶は、人間という存在の関係性の証である。記憶への愛着や記憶の保持への強い欲求がなければ、人間は文字による記録を生み出さなかっただろう。文字による記録は、記憶の保管を意味した。そこから記録の収集へはもう一歩であるが、さらに知の共有へと進むには長い年月が必要だった。

 記録の収集は、シリア〜メソポタミアから始まった。シリア北部のエブラ遺跡からは2500枚の粘土板が見つかった。紀元前3000年紀後半の世界最古の図書館と考えられている。楔形文字によって粘土板に書かれていたのは、ほとんどが行政・経済文書であった。食糧の備蓄リスト、毛織物の交易記録、課税の記録、儀式の記録などがシュメール語で記されていた。南部メソポタミアの粘土板文化がシリアにまで伝わっていたのである。

 前7世紀前半、アッシリアが初めてオリエントを統一した。アッシュル・バニパル王(位、前668〜前627)は、メソポタミア北部の都ニネヴェの宮殿に大図書館を造ったことでも有名である。彼は書記に命じて、バビロニアに伝わるシュメール時代からの古文書を収集させたり、書写させたりした。3万枚の粘土板が、行政・経済・天文・神話・地理などに分類され、それぞれ別の部屋に保管されていた。特筆すべきことは、エブラ文書にはなかった文学が含まれていたことである。知の共有が始まっていたのである。有名な『ギルガメシュ叙事詩』も収蔵されていた。なお、アッシリアでは、公的文書は二種類作成された。粘土板にはアッカド語で、羊皮紙にはアラム語で記録された。また、それまで読み書きは専門の書記たち(宦官も多かった)に任されていたが、アッシュル・バニパル王は難解な文書も読めたという。

 ギリシアでも、前6世紀から文書収蔵が活発となった。文字は、子牛皮紙や羊皮紙に書かれた。とてもアテネらしいことであるが、アテネでは公共図書館の萌芽が見られた。都市国家政府だけでなく、富裕な市民や学者たちが個人図書館をつくるようになったのも、ギリシア時代の特徴であった。プラトンエウリピデストゥキディデスらは大きな個人図書館を持っていたが、最も名高いのはアリストテレスの個人図書館であった。アリストテレスが亡くなった後、蔵書はアレクサンドリアやローマ、さらにはコンスタンティノープルにまで伝えられた。

 前331年アレクサンドロス大王がエジプトを征服し、翌年から計画都市アレクサンドリアの建設が始まった。アレクサンドロスは、この後アケメネス朝を滅ぼしたが、アケメネス朝も大規模に文書の収集を行っていたはずである。残念なことに、ペルセポリスを破壊した時、図書館の書物も失われたらしい。地中海に面したアレクサンドリアが都市として本格的に整備されたのは、アレクサンドロスの死後、プトレマイオス朝の都となってからである。ニネヴェが灰燼に帰してから300年の歳月が流れていた。

 初代の王プトレマイオス1世(位、前304〜前282)は、アレクサンドロスの遺体をアレクサンドリアに運んで埋葬し、他の後継将軍にはない威信を獲得していた。彼は、エジプトの政治・社会組織をそのまま受け継ぎ、新しいファラオとして君臨したが、アレクサンドリアではあくまでギリシア人であった。プトレマイオス朝の歴代の王が、これを継承した。すなわち、クレオパトラ7世までこのような意識と統治システムが続いたのである。アレクサンドリアは、エジプトというより地中海世界に属していた。

 プトレマイオス1世は、アレクサンドロスの少し年上で、若き日、ともにアリストテレスの教えを受けていた。彼はアリストテレスの弟子をアレクサンドリアに招き、ムーセイオン(ムーサイ[学芸の女神たち]に捧げた王立研究所、museum の語源となった)を開設した。ムーセイオンは、アレクサンドリアのほぼ中央、アレクサンドロス廟に隣接した地にあり、北東部にあった王宮(クレオパトラ7世は王宮の一番北、イシス神殿のかたわらで自殺した)とつながっていたと考えられている。地中海世界から集められた、約100名の学者たちが、研究に専念した。

 ムーセイオンの施設の中で、とりわけその名を知られたのが大図書館であった。アリストテレスの個人図書館をモデルとしたが、はるかに大きな施設となった。「世界の七不思議」の一つとして、アレクサンドリアのファロス灯台が有名であるが、大図書館は「知の海」の灯台となった。古代における知の共有は、ここに一つの完成を見たのである。蔵書数は70万巻とも言われ(本はパピルスと子牛皮紙の巻物の形だった)、図書館長の地位にある者がムーセイオンの最高責任者であった。初代図書館長ゼノドトスは、ギリシア語の文学作品を集め、その整理・校訂を行わせた。特にホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の校訂は、後世に大きな影響を与えた。二代目の図書館長は詩人アポロニウス、そして地球の全周を計算したエラトステネスが第三代図書館長であった。数学者エウクレイデスユークリッド)も、科学者アルキメデスも、地理・天文学者プトレマイオスも、ムーセイオンで研究した人々であった。ローマ支配下になってからも、しばらくの間ムーセイオンは地中海世界の学術センターであった。

 ギリシア都市・アレクサンドリアは同時に国際都市であり、エジプト人フェニキア人はもちろん、インド人の姿さえ見られたという。また当初から、ユダヤ人地区が設けられていた。ギリシア語を母語とするユダヤ人が居住していたのである。1世紀のユダヤ教哲学者フィロンは、とうとうギリシア哲学とユダヤ教神学を結びつけた。また、旧約聖書ギリシア語訳(七十人訳)が、3世紀のアレクサンドリアで完成した。また同じ3世紀には、哲学者プロティノスが新プラトン主義の思索を深めた。さらに、キリスト教にとっても重要な都市であり、アタナシウスアレクサンドリアの司教であった。

 しかし、5世紀初め、時代は暗転した。キリスト教は4世紀末にローマの国教となったが、ファナティックなエジプト人修道士たちによって、ムーセイオンは異教の殿堂と見なされたのだった。大図書館も破壊され、迫害は、新プラトン主義の女性哲学者ヒュパティアの虐殺(415年)で頂点に達する。ここに、アレクサンドリアギリシア精神は、その終焉を迎えた。

 現在のアレクサンドリアは人口430万人を数えているが、2002年、新アレクサンドリア図書館が開館した。古代アレクサンドリアの大図書館にオマージュを捧げた公共図書館が、イスラーム世界に造られた意義は大きい。入り口の巨大な花崗岩には、世界中の文字が刻まれているという。

 今日、図書館のない街は考えられない。アレクサンドリア地中海世界へと開かれていたように、どんな小さな街の図書館も世界へとつながっている。インターネットや電子書籍が変化をもたらしても、図書館は、人々に寄り添いながら、これからもずっと続いていくだろう。

 「図書館とは魔法にかかった魂をたくさん並べた魔法の部屋である、とエマーソンは言いました。私たちが呼べば、魂たちは目を覚まします。」(ボルヘス
 
《参考文献》
 E.M.フォースター『アレクサンドリア』(中野康司訳、晶文社、現在はちくま学芸文庫
 スチュアート・A・P・マレー『図書館の歴史』(日暮雅通監訳、原書房
 樺山紘一『地中海』(岩波新書
 大貫良夫・前川和也・渡辺和子・屋形禎亮『人類の起源と古代オリエント』(中央公論社版世界の歴史1)
 桜井万里子・本村凌二ギリシアとローマ』(中央公論社版世界の歴史5)
 森谷公俊『アレクサンドロスの征服と神話』(興亡の世界史01、講談社
 ボルヘス『七つの夜』(野谷文昭訳、みすず書房)