近世 東アジア・中央ユーラシア 【モンゴル帝国と草原の心】

★1206年、テムジンはクリルタイ(大集会)で、モンゴル系・トルコ系遊牧民の君主となり、チンギス・ハン(偉大な王)と称した。モンゴル高原に、一つの強力な政治勢力が現れたのである。「イェヘ・モンゴル・ウルス」(大モンゴル国)である。クリルタイが開かれた場所は、現在のウランバートルの東方、オノン川のほとりであった。なお「ウルス=国」は、近代後期以降の国民国家ではない。ハンに率いられた、部族連合集団を指す。1206年当時、チンギス・ハンは、少なくとも40歳を越えていた(生年は不明である)。すでに老練な統率者であり、周到な戦略家であった。千戸制をとり、当初95あったという。(十進法体系の軍事組織は、匈奴以来の伝統であった。)

 チンギス・ハンには、「蒼き狼の子孫」という伝説がある。『モンゴルの秘められたる歴史』(漢訳されて『元朝秘史』)冒頭の「上天(あまつかみ)よりの定命(さだめ)にて、生まれたる蒼き狼あり。その妻なる惨白(なまじろ)き牝鹿あり。」に由来する。狼始祖伝説は、突厥にもマジャール人にもあるという(少し変わった形でローマにもあった)。この伝説からは、二つのことがわかる。一つ目は、モンゴル人が、もともとは純粋な草原の民ではなく、狩猟民の面影を残す遊牧民だったことである。少なくとも、シベリアの森林地帯の近くにいた遊牧民だったろう。二つ目は、天への崇拝である。天に感謝しながら、草原で生きたのである。ハンは天の命を受けた統治者であり、モンゴル社会には天の意を占うシャーマンたちがいた。(天の思想は、周代に遊牧民から漢民族に伝わった。)

 モンゴル帝国が突然歴史上に現れたわけではない。チンギス・ハンは、1220年に、中央アジアからイラン方面にあったホラズムを滅ぼしたが、この時すでにモンゴル軍には多くのトルコ系諸部族やキタイが加わっていた。耶律楚材をはじめ、キタイのブレーンの存在は大きかった。遊牧帝国の先駆者たちの知恵が、新興のモンゴル国に統合され生かされることになったのである。スキタイ、匈奴から続く千数百年の遊牧国家の歴史が、その頂点に達したとも言える。チンギス・ハン、オゴタイ・ハン、モンケ・ハン、フビライ・ハンと続くなかで、モンゴル帝国ユーラシア大陸の多くの地域をつなぐ役割を果たした。帝国の西への拡大にあたっては、軍事行動とともに、ムスリムへの親和的とも言える態度の果たした役割が大きかった。むしろ帝国の経済的は、ムスリム商人が担ってきた、陸と海の交易圏を活用することで成り立っていた。モンゴル人自身には天への崇拝とシャーマニズムの要素があったが、それを他民族に強制することはなかった。民族や文化の違いにあまり拘泥しなかったのである。最後まで農耕地帯の漢民族になじむことはなかったが、漢民族支配層のような夷狄観とは無縁であった。この結果、キプチャク・ハン国チャガタイ・ハン国イル・ハン国は、イスラーム化することになる。

 キプチャク・ハン国を除くと、他の3国は100年ぐらいで滅びている。日本や東南アジアに遠征した元朝(1271〜1368)も、100年は続かなかった。元朝の場合、モンゴル人と色目人は特権階層となり、多数の農耕民族を支配した。元来のウルスではなかったのである。14世紀前半からは民衆暴動が頻発するようになる。対外的な軍事行動はなくなり、元朝で生まれたモンゴル人青年たちには実戦の経験がなくなっていた。元朝は傭兵で暴動鎮圧にあたっていたのである。元朝が滅んだ時、モンゴル人たちは車馬にたくさんの財貨を積んで、北へ帰って行ったという。遊牧の暮らしに財産は不要というかつての精神は、弱まっていたのだろう。

 オゴタイ・ハンは、あるモンゴル貴族に次のように語ったという。

 「なぜあなたは財産をたくわえているのです。人間はよく生き、よく死なねばならぬ。それだけが肝要で、他は何の価値もない。」(『草原の記』)

 近年、「モンゴル帝国から世界史が始まる(「世界の一体化」が始まる)」という見方が提出されている。これには、次の点で疑問を感じる。

 ①スキタイ、匈奴から始まる遊牧国家史の最後の段階と考えられる。モンゴル帝国以後、遊牧国家は力を失っていく過程に入る。
 ②ユーラシアの経済的つながりの面では、ムスリムの方が先行していた。
 ③アメリカ大陸を含んだつながりという点で、「世界の一体化」はやはり15世紀末からと考えられる。

 西欧中心史観や漢民族中心史観から脱却しなければならないという考え方に、異論はない。しかし、西欧中心の世界史を批判するあまり、別の中心をモンゴルに求めているように見える。一つの中心や一元的な始点を求めるのでは、西欧中心史観と同じ発想になってしまうのではないか。一つの中心や一元的な始点を求めない、多中心的で多元的な世界史像を考えていく必要があると思う。

モンゴル語では、「ハ」と「カ」、「タ」と「ダ(デ)」の発音の基準はあいまいであるという。モンゴル帝国時代には「カン」「オゴデイ」「クビライ」という発音だったとの説もあるが、慣例に従った。
※やむを得ず、東アジア近世に分類した。

《参考文献》
 山田信夫『草原とオアシス』(ビジュアル版世界の歴史10、講談社
 杉山正明モンゴル帝国と長いその後』(興亡の世界史09、講談社) 
 杉山正明・北川誠一『大モンゴルの時代』(中央公論社版世界の歴史9)
 ヴォルフラム・エーバーハルト『中国文明史』(大室幹雄・松平いを子訳、筑摩書房
 司馬遼太郎『草原の記』(新潮社)