近世 ヨーロッパ 【トマス・モアの『ユートピア』】

ユートピアという語は、日本語の中に定着している。あることを否定する時に使われることもあるが、まだイメージの喚起力を失っていない。もともとは、500年前にトマス・モア(1478〜1535)が造った語で、その著書名ともなった。日本語では「理想国」・「理想郷」と訳されてきたが、「ウ・トポス」というギリシア語がもとになっており、元来は「どこにもないところ」という意味である。

 『ユートピア』はラテン語で書かれ、1516年に出版された。第1巻・第2巻に分かれているが、いずれも「社会の最善政体」についてラファエル・ヒュトロダエウスという人物が語ったことを、モアが書き留めたという体裁をとっている。『ユートピア』はユートピア文学の嚆矢ではなく、政体論であり、正義論であった。友人エラスムス(『愚神礼賛』は1509年、滞在していたモア家で書かれた)と共通の風刺精神も見られるが、ユートピアの叙述を通して現実の社会を再考してほしいという、モアの強い願いが感じられる。

 『ユートピア』は、次のような時代の中で書かれた。

 ①1494年から始まったイタリア戦争の最中であり、ヨーロッパは主権国家体制の形成期に入っていた。『ユートピア』の中で、ラファエルは「イタリアなどに干渉せず自国に引っ込んでおるべきだ、フランス王国一つでさえも、ひとりの人間によってうまく統治されるには大きすぎる」と語っている。(なお、マキァヴェリが『君主論』を執筆したのは1513年であった。)
 ②イングランドもまた、主権国家として自立しようとする時期にあり、1509年、モアが32歳の時に、ヘンリ8世が即位した。
 ③アメリゴ・ヴェスプッチの航海が知られるようになり、新大陸アメリカが認知されるようになっていた。ラファエルはアメリゴの航海に同行した後、他の5人の仲間と赤道の南側にあるユートピア島に行ったという設定になっている。大航海時代のさなかの出版であった。

 このような近代の幕開けの時期に、『ユートピア』は書かれた。高校の世界史では、『ユートピア』は囲い込み批判として教えられることになってしまったが、よく引用される羊の部分は『ユートピア』全体の中では挿話的である。羊の話の背景としては、イングランドからフランドル(モアはラファエルの話をフランドルで聞いているという設定である)への羊毛の輸出が盛んだったことが挙げられる。ただ囲い込まれた土地は、実際はイングランドの耕地面積の3%にすぎなかった。

 政体論・正義論としての『ユートピア』はなかなか興味深い。随所にギリシア・ローマの古典の知識がちりばめられているが、特にプラトンの『国家』を参考にして書かれている部分が多い。ユートピアを統治しているのは哲人ではないが、「都市統領、部族長頭領、聖職者」は学者身分から選ばれることになっている。一種の寡頭制であるが、長老会議や民会が専制を防ぐしくみをとっているようである。私有財産制が否定され財産が共有されているため、ぶ厚い市民層で成り立っている。ただ、奴隷も存在している。人々は何よりも「理性に基づく精神の快楽」を重んじ、それが公共性へと開かれ、相互奉仕はあたりまえになっている。

 私有財産に関する『ユートピア』の次の議論は、19世紀後半から20世紀にかけても、ほとんど同じように繰り返された。(沢田昭夫訳)

 「私有財産制がまず廃止されないかぎり、ものが平等、公正に分配されることはなく、人間生活の全体が幸福になることもないと確信しております。」「ユートピアでは、貨幣の使用全廃とともに、貨幣に対する欲望が完全に消滅させられました。」
 「私は逆に、すべてが共有であるところでは、人はけっして快く暮らしてゆけないように思えます。自己利得という動機から労働に駆りたてられることもなく、他人の勤労をあてにする気持ちで怠け者になり、だれしも働かなくなれば、物資の豊富な供給などいったいどうしてありえましょうか。」

 『ユートピア』全編の基調は、社会的不正義への怒りである。

 「私は(ユートピア以外の)民族のあいだに正義や公平のあとかたをいくら見つけようとしても見つけられません。…貴族だの金細工師だの高利貸だの、要するに、さっぱり働かないかまたは働いても社会のためにことさら必要でもないことをしているような連中が、豪華な生活をするようになっています。他方では(多くの人たちが)必要不可欠な労働で骨身をけずっておりながら、それどもひどく乏しい生計しか立てられず、非常に惨めな生活を送っています。…日給がその日の生活にも足りないほどわずかなのですから、老後に使うために毎日ためておけるような余分や余剰などはとてもありはしません。これこそ、不正で恩知らずの社会ではないでしょうか。」

 『ユートピア』出版の翌年ルターの改革が開始されたが、モアは教会の分裂を批判し、エラスムスと同じくカトリックの側に立っていた。一つの教会が西ヨーロッパを抱擁し続けることを望んでいたのである。このような時、ヘンリ8世の離婚問題が持ち上がった。ローマ教皇は、王妃キャサリン神聖ローマ皇帝カール5世の叔母にあたっていた)との離婚を認めず、紛糾していたのである。この問題のさなかに、モアは大法官に任ぜられた。モアは、教会法の立場から離婚に反対していた。ヘンリ8世は離婚を強行し、モアは大法官を辞任する。新王妃アン・ブーリン戴冠式にも、モアは欠席した。1534年、ローマ・カトリック教会からの分離を定めた国王至上法が成立した。イングランド国教会の成立であり、イングランドにおける主権国家の成立でもあった。この法律への宣誓を拒んだモアは、ロンドン塔に幽閉された。そして翌年、モアは大逆罪とされ、斬首されたのである。58歳であった。

 イングランドにおける主権国家の成立が、モアに死をもたらした。モアは超国家的なキリスト教社会という中世的理念に殉じたと言えるかも知れない。しかし、<ユートピア>は中世的理念ではない。ここに、近代初頭を生きた人文主義者トマス・モアの複雑さと魅力がある。モアの痛烈な社会批判は、500年の時を越え、格差の拡大する現在に突き刺さっていると言ってもよい。『ユートピア』の末尾に述べられているように、<ユートピア>は希望の原理なのである。

《参考文献》
 トマス・モア『ユートピア』(沢田昭夫訳、『世界の名著17 エラスムス、トマス・モア』[中央公論社]所収、現在は中公文庫)
 青山吉信・今井宏『新版 概説イギリス史』(有斐閣
 長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『ヨーロッパ近世の開花』(中央公論社版世界の歴史17)