世界史ミニ授業(中世)【ノルマン・コンクェストと「イギリス」(その2)】

★それじゃ、本題のノルマン・コンクェストに入りますよ。[板書:ノルマン・コンクェスト]コンクェストって、征服の意味の英語ね。教科書では、ノルマン人の移動のところで書いてあるんだけど、同時にイングランドの歴史だし、フランスの歴史でもあるんだね。教科書ではさらっと書いてあるんだけど、「何かあんまりよくわかんない」って感じが残っていく。できるだけそういうことをなくすため、整理して、だけどうまくできるかなあ、ま、頑張ってやってみます。

 まず、こういうことを押さえてみるね。[板書:ノルマン人→北西ヨーロッパ中心に活発(8世紀後半〜11世紀)]一応ここでは、前にやった「ノヴゴロドキエフ」のラインと地中海への進出はカッコにいれておくね。それで、デーン人のイングランド侵入を思い出してください。デーン人と言っても、ノルマン人だよ。「デンマーク地方のノルマン人」で、デーン人ね。ここでデンマークを印象に残しておくと、いいことがあるからね。後で出てくるカルマル同盟っていうのが、わかりやすくなる。

 北西ヨーロッパでノルマン人の活動は、8世紀後半から9世紀、10世紀、11世紀と活発だった。だから、ノルマンディー公国ができたし、イングランドにデーン朝ができた。デーン人の王、誰だっけ? (生徒たち、沈黙。)○○くん、誰だっけ? (○○くん「クヌート」)そうだね。デーン人がイングランドにたくさん移住していて、クヌートが王になった。これがね、ノルマン・コンクェストのちょうど50年前。それでね、ノルマン・コンクェストの前提として、次のことを理解しておいて。[以下を、板書

 ノルマンディー公国のノルマン人→フランス化 
 ②11世紀半ばのイングランドをめぐる争い:アングロ・サクソン、デーン人、ノルマンディー公

 ①は、どういうことだかわかる? ノルマン・コンクェストの頃は、北フランスに移り住んだ頃、ロロの時代から、もう150年も経ってるからね。ノルマン人たちはフランスに同化していて、フランス語を話すようになっていた。ノルマンディーっていうのも、フランス語だよ。一応書いてみるね。[板書: Normandie(F.) ]ノルマンディーって、読めるでしょう(生徒たち、納得したようなしないような表情)。ノルマン人の住む地方っていう意味だよ。英語だと、最後 y になるけど。
 
 ②について言うと、三つどもえの争いになってたんだね。実はアングロ・サクソンのイングランド王家とノルマンディー公とは姻戚関係にあったんだ。それで、デーン朝が滅びた後の混乱の時、ノルマンディー公のギヨームは王位継承権を主張してイングランドに侵入した。この時、ギヨームはローマ教皇を味方につけていた。ギヨームって、なかなかだね。そして、ヘイスティングズの戦いで勝利する。

 [板書:→ノルマンディー公ギヨーム、ヘイスティングズの戦いで勝利→イングランド王・ウィリアム1世として即位(ノルマン朝)、1066

 教科書も資料集もノルマンディー公ウィリアムってなってるけど、黒板に書いたのが正しいからね(生徒たちは怪訝な面持ち)。さっき話したように、ノルマンディー公国のノルマン人たちはフランス化していて、フランス語を話すようになっていた。ウィリアムって、英語の名前でしょ。フランス語を話してたんだから、名前もフランス語の名前だよ。だから、ギヨーム。私を信じて。(生徒たち、笑っている。)

 ここまで、わかったかな。そうすると、こういう国ができたんだよ。

 [板書:ノルマンディー公国イングランドノルマン朝の略地図

 スコットランドは書いてないからね。何か変な感じだけど、海をはさんで、こういう国ができた。こういうのを、複合国家っていう。

板書:ノルマンディー公国イングランド王国(海をはさんだ複合国家)

 今のイギリスとフランスっていう発想で考えないでね。だから、ウィリアム1世は、ノルマンディー公でなくなったわけじゃないよ。ノルマンディー公がイングランド王を兼ねていた。ノルマンディーでは相変わらずノルマンディー公ギョーム。イングランドでは、ウィリアム1世と呼ばれた。大丈夫? こういうところが、世界史は面白いんだ。じゃ、教科書に載ってる「バイユーのタペストリ」見てみよう。ノルマン・コンクェストを描いた、有名な刺繍ね。いわゆるヴァイキングの船が使われてるのがわかるね。バイユーっていうのは、ノルマンディーの町だよ。征服した側で作ったんだ。

 こういう複合国家、「アングロ・ノルマン王国」っていう感じだね、これができた。すると、イングランドはどうなっていったか? 2つあげておくね。[以下を板書

 ①反抗する諸侯はおさえられ、王権の強い、イングランド独自の封建制度ができた
 ②フランス語がイングランド流入した(〜プランタジネット朝

①に関してだけど、ヨーロッパ大陸側の封建制度では、王権は最初弱くて、諸侯の独立性が高かったからね。それから、宮廷でフランス語が話されただけでなく、高位聖職者もフランス系の人になったから、②が起きたんだ。ちょっとだけ、例を挙げておくよ。[以下を板書

 フランス語から英語に入った語
  beef , pork , dinner , royal など

英語って、面白いみたいだよ。アングロ・サクソンのことばをベースに、ノルマン語、フランス語、ラテン語ギリシア語、ケルト語の語彙を取り入れた混成語なんだって。

 次は、さっき板書したプランタジネット朝にいきます。プランタジネット朝もフランス系の王朝だったんだよ。

※「ノルマンディー公ギヨーム」と表記した教科書が、ようやく現れた。山川出版社の新課程用教科書「新世界史B」(世B306)である。また、この教科書は、1707年のグレートブリテン王国成立前まで、一貫してイングランドという語を使用しており、すばらしい。(→ 【ノルマン・コンクェストと「イギリス史」】
 ただ、ノルマン・コンクェストを聖職叙任権闘争のあとに記述しており、少し専門的な位置づけになってしまったのは残念である。

※最も新しいイギリス史概説書である近藤和彦著『イギリス史10講』(岩波新書)も、当然のことながらギヨームと書いている。【2014年1月追記】

ミニ授業【ノルマン・コンクェスト(その1)】

→ 関連テーマ 【プランタジネット朝】

→ 世界史の授業全体については 【授業を考える(ミニ授業の公開にあたって)