【世界史の授業を考える・その2(ミニ授業を公開しながら思うこと)】

■授業を再現するということは難しいものです。公開を始める前に恐れていたのですが、やはり「こんな授業をやってます!」というような感じになってしまいました。授業用のノートと記憶に頼って再現していますので、美化が行われているのは確かです。

■どうしても調和的な書き方になってしまいます。授業における、生徒たちとの幸福な関係の記憶が、私の中に堆積しているからでしょう。しかし、当然のことですが、うまくいった授業の何倍も、うまくいかなかった授業がありました。

■私たち歴史の教員は、教えることに精一杯だったり、教える喜びでいっぱいだったりすると、問いを忘れてしまいます。歴史への問いかけを忘れてしまいます。すべて何か自明の歴史的事実だったかのように、次から次へと教えてしまうのです。歴史を教える者は、むしろ、歴史的事項と自分との隔たりを意識した方がよいと思います。本当は、時間や空間だけでなく、さまざまな媒介物が歴史的事項と自分とを隔てているはずなのです。隔たりの自覚の中からこそ、問いが生まれます。そのような問いが、「ミニ授業」にはあまり表れていないかも知れません。

■教える者が隔たりを忘却すれば、生徒たちもまた隔たりを意識しません。もちろん、教員の授業という媒介も意識されません。こうして、教員も生徒も「歴史の複雑さ」や「過去との対話の複雑さ」(これらこそが歴史を学ぶことの苦しさと喜びをもたらすのですが)を忘却することになります。「ミニ授業」もまた、このような弊に陥っているかも知れません。

■なお、「ミニ授業」の内容構成や板書事項は、固定的なものではありません。授業は「ライヴ」ですので、多少のヴァリエーションがあります。また、今までも更新されてきましたし、これからも更新されていくと思います。

■ともあれ、「生徒たちとの幸福な関係の記憶」の分を差し引いて読んでいただくと、ちょうどよいのではないかと思います。