中世 ヨーロッパ 【魅惑のノルマン・シチリア王国】

シチリアは、地中海の中央に位置し、古代から文明の十字路だった。フェニキア人、ギリシア人、ローマ人、アラブ人などが、入れ替わり立ち替わり島にやって来た。シチリアの多文化性が最も花開いたのは、12世紀のノルマン・シチリア王国においてであった。(慣用的には両シチリア王国と呼ばれるが、この名称が正式に用いられたのは、15世紀半ばと19世紀である。)

 11世紀、北フランスのノルマンディー公国から、南方での成功を夢見た騎士たちが、傭兵として、諸勢力が争う南イタリアに渡った。傭兵として重く用いられたノルマン騎士の中からは領主の地位にのし上がる者が現れ、やがてローマ教皇から公としての地位を認められるようになった。ちょうど、ノルマンディー公ギョームによるノルマン・コンクェスト(1066)の頃である。11世紀末、初代のシチリア=カラーブリア伯(カラーブリアはイタリア半島南端の地方[半島の「つまさき」の部分])となったロゲリウス(ラテン名、イタリア語ではルッジェーロ)1世も、ノルマンディー出身の騎士であった。その息子ロゲリウス2世は、1130年、南イタリアからシチリアにかけての王として、パレルモ戴冠式を行った。カール大帝にならいクリスマスに挙行された。これにより、ノルマン・シチリア王国が成立したのである。
 ローマ・カトリック教会ギリシア正教会が分離した(1054)後であったにもかかわらず、戴冠式には、カトリックの聖職者たちとともにギリシア正教の聖職者が参列していた。また王に仕える役人たちは、ギリシア人、アラブ人、ラテン系のすべてを含んでいた。6〜8世紀はビザンツ帝国領、9〜10世紀はイスラーム領だったシチリアの歴史が、ここに現れている。ロゲリウス2世、ウィレルムス1世(イタリア語ではグリエルモ)、ウィレルムス2世の三代(1130〜89)が王国の最盛期であったが、それぞれの治世の宰相にはギリシア人もアラブ人も南イタリア人もいた。宰相はアミラートゥスという称号で呼ばれたが、これはアラビア語のアミール(軍司令官・総督)がラテン語に音写された語であるという。王宮の召使いや女官たちの多くはムスリムであった。

 都のパレルモは人口数万人で(ロンドンやブリュッセルよりやや多く、ヴェネチアフィレンツェ、パリなどよりは少なかった)、ラテン・キリスト教文化、ギリシアビザンツ文化、アラブ・イスラーム文化が共存していた。住民としてはムスリムが多かった。地中海貿易の中核的港でもあり、イベリア半島からの旅人も、エジプトからの商人もパレルモを訪れた。ヴェネツィアの商人も、イングランドの聖職者も来ていた。12世紀末に王国を訪れた、イベリア半島出身の旅人イブン=ジュバイルは、繁栄するパレルモの様子を次のように描いている。

 「古くて優美な、壮麗で優雅な、見る目を魅惑する町である。一面に果樹園が広がる平野と平地にそそり立つ町で、路地も通りも広く、見事な外観はひときわ目立ち、人々の目を眩惑する。町並みはコルドバ風で、建物はすべてカッザーンと呼ばれる切り石で建てられている。泉から流れ出す川が町を分かち、近郊にはこんこんと水の湧き出る四つの泉がある。(中略)王はこの町に何と多くの宮殿や建物、見晴らし台を所有していることか。何と多くの修道院が建てられていることか。それらの建物は見事に装飾され、そこに住む修道僧は広い封土を与えられ優遇されている。また金銀細工の十字架をもつ教会が何と多いことか。」(『旅行記』、藤本勝次・池田修監訳)

 王宮や教会は、西ヨーロッパ的なものとは異なっていた。現在も旧市街に残る王宮のロゲリウスの間の正面には、椰子や棕櫚の木々の間にライオン・ヒョウ・孔雀などが描かれている。王宮付属の礼拝堂は、アラブ建築の構造を持ちながら、内陣の天蓋にはキリスト、天使、福音書記者が描かれ、「アラブ・ノルマンの珠玉」と呼ばれている。また旧市街中心部のラ・マルトラーナ教会には、「キリストから王冠を受けるロゲリウス2世」や「聖母マリアの足下にひざまずくロゲリウス2世」のモザイク画が残されている。どちらもビザンツ風である。しかも天井の一部には、賛美歌がアラビア文字で記されているというから驚きである。
 王たちは、祖先とは異なり純粋なノルマン人ではなかった。北イタリア人を母にもつロゲリウス2世の三人の妃は、スペインとフランスから嫁いできた。ウィレルムス1世の妃はイベリアのナヴァラ王の娘であり、ウィレルムス2世の妃はイングランド王ヘンリ2世(プランタジネット朝初代の王)の娘であった。彼女たちの周囲には、母国から付き従ってきた人々がいた。王国は、あらゆる面で、人的流動性が高かったのである。

 シチリアでは、アラビア語ギリシア語文献のラテン語訳が行われ、西ヨーロッパに大きな影響を与えた。『メノン』などプラトンの対話篇も翻訳された。多くの知識人がパレルモを訪れたが、最も有名なのはモロッコの地理学者イドリ−シーであり、ロゲリウス2世に仕えて世界地図を作成した。またイングランド人アデラルドゥスは、南イタリアアラビア語を学んだ後、シチリア経由でイングランドに戻り、エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』をアラビア語からラテン語に翻訳した。シチリアは、イベリア半島と並んで12世紀ルネサンスの中心地だったのである。

 しかし王国では、13世紀以降ラテン・キリスト教化が進められ、次第に異文化の共存は失われていった。パレルモで育ち神聖ローマ皇帝となったフリードリヒ2世(位1215〜50)の時代が分岐点だったであろう。彼は「世界の驚異」と呼ばれた知識人であり、第5回十字軍におけるアイユーブ朝との休戦協定でも知られるが、政治的には神聖ローマ皇帝としての立場に軸足をおかざるを得なかった。イベリア半島では、レコンキスタが本格化していた。
 12世紀の数十年間ではあったが、ノルマン・シチリア王国は、ラテン・キリスト教文化、ギリシアビザンツ文化、アラブ・イスラーム文化が共存する希有な時代をもたらした。それは、異文化への寛容政策の時代と言うよりも、王国の繁栄のために、異文化に属する人々を必要とした時代であった。

 シチリアにおける異文化共存の時代と共存が失われていった時代を振り返ることは、現在の私たちの課題につながってくる。国民国家という枠組みは続いてはいるが、それぞれの国で、異文化に属する人々を必要とする時代が訪れているように思われる。

《参考文献》
 高山博『神秘の中世王国』(東京大学出版会
 金沢百枝・小澤実『イタリア古寺巡礼 シチリアナポリ』(新潮社・とんぼの本
 小森谷慶子・小森谷賢二『シチリアへ行きたい』(新潮社・とんぼの本