近世 ヨーロッパ 【17世紀はオランダの世紀】

◆スペインとの独立戦争(1568〜1609)を戦いながら、ネーデルラントの北部7州(オランダ、7州のうちのホラントが語源)は急速に発展した。カトリックの中心スペインに対し、北部7州にはカルヴァン派の人々が多かった。1581年の独立宣言で成立したのは、絶対王政の国家ではなく、ネーデルラント連邦共和国であった。アムステルダムはヨーロッパの経済・文化の中心となり、1602年に設立された東インド会社はアジアに進出した。17世紀の前半、ドイツを戦場として三十年戦争(1618〜48)が戦われていたが、オランダはこの時繁栄を迎えたのである。この繁栄は、17世紀後半の英蘭戦争によって終わったわけではなく、イングランド名誉革命(1688〜89)さえ、オランダの支援なくしてはあり得なかった。オランダの繁栄は、18世紀前半まで続いたのである。

 約20年間オランダで過ごした、フランスの哲学者デカルトは書いている。

 「この国には、長く続いた戦争[引用者註:独立戦争のこと]のおかげで、常備の軍隊は人々が平和の果実をいっそう安心して享受できるために役立っている、と思えるような秩序ができている。ここでは、大勢の国民がひじょうに活動的で、他人の仕事に興味をもつより自分の仕事に気をくばっている。わたしはその群衆のなかで、きわめて繁華な都会にある便利さを何ひとつ欠くことなく、しかもできるかぎり人里離れた荒野にいるのと同じくらい、孤独で隠れた生活を送ることができたのだった。」(谷川多佳子訳)

 「大勢の国民」とは、カルヴァン派の人々だけではなかった。再洗礼派の人々もルター派も、少数ながらカトリックも、そしてイベリア半島から逃れてきたユダヤ人もいた。オランダのカルヴァン派には、ジュネーヴカルヴァンのような峻厳さはなかった。宗教的倫理性は急進化することなく、市民的人文主義と調和していたのである。

 「この国ではエラスムスの精神があまりにも深く根を張り、またあまりにも広範な層にまで浸透していたので、カルヴァンの教説も容易に勝利を収めることはできなかった。信仰の問題にぶつかった人々は、その心情の底では旧教と新教のいずれにもまだ決定しかねていたような、多数の真摯な人たちであった。」
 「共和国およびオランダ文化におけるユダヤ人は、世界史において極めてユニークな一章を形成する。穏やかに許容され、ある程度尊敬される国民構成要素としてのユダヤ人社会である、アムステルダムポルトガルユダヤ人教会、それはレンブラントが画想と画題と友人とを見出し、スピノザが出生した環境であった。」(ホイジンガ、栗原福也訳)

 ホイジンガの文章を読むと、アンネ・フランクの一家が隠れ住んだのもアムステルダムであったことを思い出す。誤解のないよう補足すれば、スピノザユダヤ教から破門され、キリスト教徒になることもなく、独自の哲学をつくりだした。その結晶が『エティカ』(1677)であった。17世紀オランダは、独善的正統主義と激情よりは、調和と理性的な敬虔を好んだ。そのような文化的風土の中から、国際法の父・グロティウスや画家フェルメールも生まれたのだった。

 アムステルダムは、16世紀の半ばには3万の人口を数えていたが、1620年代には10万人を越える都市となった。その背景には、ネーデルラント南部の都市アントウェルペンに対する、スペイン軍の封鎖と焼き討ちがあった。独立戦争中の1585年のことであった。この結果、南部から北部へ、たくさんの人々が移住した。こうして、ネーデルラント内での経済の中心の移動が起こったのである。
 オランダは、16世紀以前からバルト海貿易に乗り出しており、16世紀末にはイベリア・地中海貿易と結んでヨーロッパ域内貿易の要となった。そこに、アジア進出(1623年のアンボイナ事件が象徴的である)による世界貿易が結合したのである。干拓による農業基盤の整備もあったが、オランダは国際貿易の覇者として、急速に都市型社会をつくり上げたのだった。デカルトの感想は、このような中から出てきたのである。

 そして、この最盛期のオランダが日本にやって来た。1600年、ロッテルダムエラスムスの住んだ都市である)の商船リーフデ号が、豊後(大分)に漂着した。ヤン・ヨーステン(彼の名が八重洲という地名のもととなったという)が乗っていた船である。オランダの対日貿易が始まるきっかけとなる出来事であった。

《参考文献》
 ホイジンガレンブラントの世紀』(栗原福也訳、創文社
 デカルト方法序説』(谷川多佳子訳、岩波文庫
 長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之『ヨーロッパ近世の開花』(中央公論社版世界の歴史17)