近代 ヨーロッパ 【フランス革命と祭典】

 啓蒙思想において光で表されてきた理性は、フランス革命(1789〜99)では擬人化された。革命の祭りの中では、人形や絵によってではなく、生きた女性によって表現された。

 フランスの詩人ミストラルが晩年に(20世紀初め)語った思い出の中に、リケルというおばあさんの話がある。南フランスのプロヴァンス地方でのことである。1848年、二月革命の知らせが届いた時、リケルは戸口に立ってミストラル青年を呼びとめた。79歳の盛装したリケルは、「これからは、だれはばかることなく、自由の木を植えられるんだ」と言い、1793年の村の祭りの時、理性の女神の役を演じたことを話したという。フランス革命の思い出が、年老いた女性の中に生きていたのであった。

 自由の木はフランス革命の最もポピュラーなシンボルだった。豊穣を祈る「5月の木」の民俗的儀礼が革命に取り入れられ、各地で植樹され、描かれた。また理性は神聖な眼でも表されたが、非キリスト教化運動の中で擬人化されるようになった。ロベスピエール独裁下の94年に開催された「最高存在の祭典」は、理性崇拝の祭典であり、祭典場中央の人工の丘の上には自由の木が立っていた。

 大規模な革命祭典は革命1周年を記念した連盟祭(国王も出席した)に始まるが、民衆の祭りは93年から94年にかけて(非キリスト教化運動が最も激しかった時期)、さまざまな表現形態をとりながら盛んとなった。それまで眠っていたカーニヴァル的な要素が、仮装行列という形態をとって、燎原の火のように各地に広がっていった。この中で、司教や司祭が嘲笑されたのである。非キリスト教化運動の総仕上げは、93年11月ノートルダム大聖堂で行われた。ルソーやヴォルテールらの胸像が掲げられる中、オペラ座の女優が「自由と理性の女神」に扮して登場した。そして式典が終わると、民衆が乱舞する祝宴になっていった。リケルばあさんが理性の女神の役を演じたのは、民衆のエネルギーが革命の祭りへと解放された時期であった。(ただ、聖職者基本法への宣誓問題と絡み合って、非キリスト教化に抗する民衆運動も同時に存在した。)

 しかしロベスピエール公安委員会は、アナーキーな非キリスト教化運動には批判的であった。人々を統合する新たな神が必要だと考えていた。「最高存在の祭典」は、民衆的祭典の集大成であると同時に祭りの統制の始まりでもあった。祭典は、徳を持った公民を共和国の中に創り出すという公教育の一環として、実施されたのだった。祭典の中で、ロベスピエールは厳かに「美徳の司祭」の役を演じたのである。
 革命中、ロベスピエールほど「厳格な徳、絶対的な献身」を称揚した人物はいない。パリの民衆運動に基盤を持っていた彼は、「私こそが、人民の権利だけではなく、人民の性格と徳を擁護したのである」(ジャコバン・クラブでの演説、松浦義弘訳)と述べていた。しかも同時に「わたし自身が人民なのだ」とも語った。こうして、ルソーの「一般意志」は個人によって体現され、主権者と独裁者が同一化されたのである。おびただしい血が流されることとなった。ロベスピエールテルミドールのクーデタで失脚し処刑されたのは、「最高存在の祭典」の翌月であった。

 イギリスの市民革命とは異なり、フランス革命では、バスティーユ襲撃から始まる民衆運動の奔流、成立したばかりの議会(現在の代議制とは同列に論じられない)での議論、農民の動き、対外戦争、制度や習俗全体の変革などが、錯綜して推移していった。この中で行われた革命祭典は、革命の政治過程や経済動向との関連でも、重要なものであった。革命祭典は、「最高存在の祭典」を分岐点として変化する。カーニヴァル的なものは沈静化させられたが、総裁政府期のお仕着せの祭典は民衆の支持を得られなかった。

 しかし、民衆の記憶は生き続ける。リケルばあさんの中では、半世紀を経ても、革命の輝かしい思い出が消えることはなかった。村人たちの集団的記憶としても、消え去ることはなかっただろう。自由の木や理性の女神という象徴体系を通して、人々はルソーらの啓蒙思想を体感し、革命を生きたのである。

《参考文献》
 ミシェル・ヴォヴェル『フランス革命の心性』(立川孝一ほか訳、岩波書店
 五十嵐武士・福井憲彦アメリカとフランスの革命』(中央公論社版世界の歴史21)
 谷川稔・渡辺和行編『近代フランスの歴史』(ミネルヴァ書房
 遅塚忠躬『フランス革命 歴史における劇薬』(岩波ジュニア新書)
 松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」(『講座世界歴史17[岩波書店]所収)
 多木浩二『絵で見るフランス革命』(岩波新書

自由の女神については【ドラクロワが描いた、自由の女神】