近代 ヨーロッパ 【書くキルケゴール】

セーレン・キルケゴール(1813〜55、デンマーク)は、日本では1960年代を中心に読まれたが、今では「哲学史博物館」の実存哲学の部屋に展示されている。キリスト教実存主義と分類され、20世紀のヤスパースハイデガーサルトルの先駆者として、コーナーが設置されている。人々は、生涯や著書を一瞥し、次のコーナーへと移るだろう。何人かの人はレギーネオルセンとの婚約破棄に興味を持つかも知れない。

 キルケゴールは、43年『あれか、これか』を出版すると、すさまじい勢いで著書を出していった。同年には『おそれとおののき』、『反復』を、翌年には『哲学的断片』と『不安の概念』を出版している。そして、49年の『死にいたる病』、50年の『キリスト教の修練』まで、すべてペンネームで刊行した。彼は、『おそれとおののき』の序文で次のように書いていた。

 「この本の著者はけっして哲学者ではない。彼はシステムというものを理解していないし、第一そんなものがあるのかどうか、それが完成されたかどうかも知らない。…彼は、体系の研究に精力を使いつくそうとも、自分を体系に縛りつけようともしない。彼が書くのはそれが彼にとって愉悦であるからで、彼が書くものを買ったり、読んだりする人が少ない方が、彼の喜びは増すのである。」(マーク・C・テイラーの論文より、上野直子訳)

 キルケゴールが「哲学史博物館」を見たら、「私はけっして実存主義者ではない」と言ったかも知れない。現在の私たちは、「システム」や「体系」を単にヘーゲル哲学と読み替えなくてもよいだろう。キルケゴールは、哲学という学問よりも、哲学することそのものを選んでいた。それは、著作で何度もソクラテスに言及していることにも、表れている。

 キルケゴールが生きた時代、各国ではウィーン体制に抗する動きが激しくなった。デンマークも例外ではなく、二月革命三月革命の影響を受けて絶対王政が倒れ(48年)、翌年には立憲王政となった。キルケゴール自由主義を理解していたが、大衆運動には懐疑的で、デモや集会からは距離をとっていた。それは、46年に出された『現代の批判』にも表れている。しかし、時代の流れの外部からの目は、20世紀の大衆社会論を先取りした、痛烈な社会批判を生み出したのだった。なお、デンマーク国教会はルター派に属していたが、世俗化した国教会が批判の対象となるのは避けられなかった。キルケゴールは、その生の最後の時期、デンマーク国教会と激しく闘うことになる。

 商人の港町コペンハーゲンで、彼は仕事を持たなかった。望めば大学教授や牧師など安定した社会的地位を得ることができたはずだが、マージナルな場で生きていた。毛織物商だった父親の遺産で生活していた。彼は19世紀前半の、矛盾を含みながら発展する資本主義経済からも距離をとっていたのである(マルクスエンゲルスが『共産党宣言』を出版したのは48年である)。書くことが、仕事であり、人生であった。複数のペンネームの使用にも表れているように、書くという活動は、極めて意識的になされた。書く「愉悦」の背後に、ぬぐいようのない罪の意識が隠されていたけれども…。根源悪の自覚とも言うべきものが、レギーネとの結婚を阻んだ。そしてすべての著作は、ひそかにレギーネに献げられた。デンマーク国教会とのあまりにも激しい闘いは、もしかしたら、キルケゴールにとっての最後の贖罪として敢行されたのかも知れない。

 当時のデンマークは、ヨーロッパの小国になっていた。かつての栄光(14世紀末から16世紀初めまでのカルマル同盟の中心はデンマーク王国だった)は消え去り、文化的にもドイツ語圏に圧倒されていた。キルケゴール自身も、ゲーテやドイツロマン主義ドイツ観念論の影響下に思想を形成していた。また、驚くべきことだが、学術用語としてはまだラテン語が重視されていた。ようやく1830年代後半から、国民主義の中でデンマーク語の文化を育てようという機運が高まっていた。そのような文化状況が、キルケゴールの学位論文(今日の博士論文にあたる)の審査に、典型的に現れた。学位論文はラテン語で書くことに定められていたにもかかわらず、キルケゴールは学位論文「イロニーの概念について」をデンマーク語で書いて提出したのだった(41年)。キルケゴールは、論文のテーゼはラテン語で書き、公開討論はラテン語で行うという条件を付して、国王宛にデンマーク語使用の許可申請書を書かねばならなかった。公開討論のあと、学位は認定された。キルケゴールは、デンマーク語を愛し、デンマーク語で書く喜びを感じていた。デンマーク語で書くことにより、ドイツ哲学とは異なる哲学を打ち出したのだった。

 デンマーク語の歴史におけるキルケゴールの貢献については、今日でも高く評価されている。また、キルケゴールの著作は、20世紀のデンマーク構造言語学者ブレンダル、イェルムスレウに影響を与えたという。なお、キルケゴールは、コペンハーゲン大学で、ラテン語ギリシア語、ドイツ語、フランス語、ヘブライ語を学んでいた。聖書も、ヘブライ語ラテン語ギリシア語、ドイツ語、デンマーク語の5つの版を持っていた。言語へのこのような関心が、キルケゴールの著作に表れていないはずはない。

 今キルケゴールを「哲学史博物館」から救い出すには、しかも日本で救い出すには、神に向き合う単独者としてのキルケゴール像だけでは不十分かも知れない。実存、不安、絶望といった語だけで理解するのでは、十分ではないかも知れない。現在では、キルケゴールの、書くことに対する意識、言語感覚、体系化や制度化から逸れる表現スタイル、そういったものにも関心が向けられているのである。


※『おそれとおののき』序文の、手元にある日本語訳は、半世紀以上前のものであるため、英語からの重訳の方を使用した。

《参考文献》
 桝田啓三郎編訳『世界の名著40・キルケゴール』(中央公論社
 大谷愛人『続 キルケゴール青年時代の研究』(勁草書房
 マーク・C・テイラー「逸脱」(「現代思想」1988年5月号[青土社]所収、上野直子訳)
 立川健二キルケゴール、ブレンダル、イェルムスレウ」」(「現代思想」1988年5月号[青土社]所収)
 ジュディス・バトラー『哲学の「他者」は語ることができるか』(「現代思想」2006年10月臨時増刊号[青土社]所収、山口理恵子訳)