近世 ヨーロッパ 【デューラーと宗教改革の嵐】

ネーデルラントアントウェルペンを訪れていたデューラーは、ルターが暗殺されたらしいという知らせを聞いた。1521年5月のことである。彼は、日記に「おお神よ、もしルターが死ねば、これから誰が聖なる福音をかくも明瞭に説いてくれるのか」と書いた。ただ、これは誤報であった。ヴォルムスの国会で異端を宣告された後、ルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒによって、ヴァルトブルク城にかくまわれたのだった。ルターは、ここで『新約聖書』のドイツ語訳を完成させた。

 1517年、ヴィッテンベルクで公にされたルターの主張は、瞬く間に神聖ローマ帝国全土に広がった。「95ヵ条の論題」はラテン語で書かれていたが、すぐにドイツ語に訳され、広く読まれたのである。ただ、当時の識字率は数パーセントと言われ、ルターの主張が広まる上では、チラシの宣伝画や短い文章、簡単なパンフレットが多大の影響力を持った。木版画も大量に刷られたが、グーテンベルク活版印刷術改良から約半世紀、新たな情報メディアの威力が存分に発揮された。ルターによるドイツ語訳の『新約聖書』も、すぐに印刷されたのである。これらの印刷の多くは、ルターと親しかった画家クラナハの工房で行われた。

 デューラー(1471〜1528)は、北方ルネサンスを代表する画家である。ニュルンベルクに生まれ、イタリア絵画とネーデルラント絵画を貪欲に学びながら、深い精神性を感じさせる、独自の世界を切り開いた。絵画、木版画、銅版画、素描など、膨大な数の作品を残している。画家としての地位を確立したのは、1498年の『黙示録木版画集』によってであった。また、有名な銅版画「メランコリアⅠ」、「書斎の聖ヒエロニムス」は、いずれも1514年に制作されている。植物や動物の微細な描写、13歳から断続的に描かれた自画像、人体比例の研究など、デュラーは複雑で多面的な人文主義者であった。

 デューラーは、造形活動に打ち込みながら、ルターの思想をよく理解していた。1520年頃、デューラーはルターの小冊子を16冊持っていたという。ヴィッテンベルクの高官宛ての手紙には、ルターの肖像画を描きたいと書いている。(これは、なぜか実現しなかった。)一方で、デューラー神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世のための仕事をしており、皇帝から年金も受けていた。1520年からのネーデルラント旅行は、新皇帝カール5世の戴冠式に出席し、併せて年金継続の確約を願うためであった。旅行中、彼はエラスムスに会い、その肖像をスケッチしている。(数年後に、人間の意志をめぐって、エラスムスとルターの間に亀裂が生じようとは、だれも思っていなかっただろう。)

 デューラーは、1521年の7月ニュルンベルクに戻ったが、宗教改革をめぐる動きは、混沌としていた。1520年に出版された『キリスト者の自由』はよく読まれ(20数ページの小冊子であった)、ルターの福音主義は大きな広がりを見せていた。しかし、ルター隠棲中には、選帝侯の下での合法的な改革に飽き足らないグループが生まれた。農民戦争の指導者となるトーマス・ミュンツァーも、このグループであった。さらに、幼児洗礼を否定する再洗礼諸派が登場し、中世のドイツ神秘主義につながる派も生まれていた。デューラーの友人や弟子たちの中にも、再洗礼派的な動きがあった。一方、民衆による聖像破壊(イコノクラスム)も起こっていた。「信仰のみ」、「聖書のみ」の立場からは、聖像は不要なものとされたのである。ルターは、破壊活動は慎むよう民衆に呼びかけたが、聖母マリア崇拝などは否定した。ルター派の教会から、聖母像や聖母の聖遺物は撤去された。(聖像破壊が最も激しかったのは、ツヴィングリやカルヴァンが改革を行ったスイスであった。)聖像の破壊や撤去を、デューラーはどう受けとめていたのだろうか? 複雑な心境だったに違いない。デューラーは、多くの聖母像・聖母子像を描いていた。

 1524年から25年にかけて、農民戦争の嵐が吹き荒れた。農民たちは、福音主義の下に、十分の一税を批判し農奴制の撤廃を求めていた。ルターとミュンツァーの間には激しい応酬があった。

 「彼らのやることは悪魔のわざにほかならない。…彼らのなすところは、強盗、殺人、流血以外の何ものでもない。…もう忍耐も憐れみも必要ではない。いまは剣と怒りの時であって、恵みの時ではない。…刺し殺し、打ち殺し、絞め殺しなさい。」(ルター「盗み殺す農民暴徒に対して」、渡辺茂訳)

 「福音を説き神のみを怖れよと言いながら、同時に正義に逆らう統治者たちに服従せよと言うとは。君主たちの顧問[引用者註:ルターを指す]どもがやっているように、敵対する二人の主人に見事に兼ね仕えることができるとは、何とご立派なことか。」(ミュンツァー「まやかしの信仰のあからさまな暴露」、田中真造訳)

 改革運動の激化と封建制の矛盾の顕在化の中で、すべての人が荒波にもまれていた。ニュルンベルク市参事会はルター派の立場を鮮明にし、デューラーの知人にも逮捕者が出ていた。デューラーは、ルターの農民非難のすべてを受け入れていたのだろうか? この頃デューラーは、黙示録的な大洪水の夢を見て、「夢の幻影」という水彩画を残している。分裂と対立の濁流の中で、デューラーは沈思していた。25年、農民たちは敗れ、ミュンツァーは斬首された。

 1526年、デューラーは、大作「四人の使徒」をニュルンベルク市に贈った。死の1年半前のことである。絵の下には、デューラーによって選ばれた聖書の言葉が、書家によって書かれた。

 「世のすべての支配者たちよ、この危険な時代にあたり、人の惑わしを神の御言葉と取らざるよう、慎みて意を用いよ。」(前川誠郎訳)

《参考文献》
 マーティン・ベイリー『デューラー』(岡部紘三訳、西村書店
 土方定一ネーデルラント旅行中のアルブレヒト・デューラー」(『土方定一著作集2』[平凡社]所収)
 越宏一『デューラーの芸術』(岩波書店
 松田智雄編『世界の名著18・ルター』(中央公論社
 倉塚平ほか編訳『宗教改革急進派』(ヨルダン社
 永田諒一『宗教改革の真実』(講談社現代新書
 藤原えりみ『西洋絵画のひみつ』(朝日出版社

デューラーについての授業は ミニ授業【ルネサンス<デューラーの「メランコリア」>】

宗教改革期のイコノクラスムについては【宗教改革期のイコノクラスム】