近代 東アジア 【清という帝国と儒学者たち】

江戸前期の日本で「華夷変態」と呼ばれたように、明から清への王朝交代によって再び「夷狄」の王朝が中国を支配することになった。これは、「華夷の別」を主張してきた儒学(特に主流の朱子学)にとっては、容易ならざる事態であった。明末清初の転換期を生きた顧炎武黄宗羲王夫之らは、明の遺臣の立場を貫いて清に仕えなかった。しかし、儒学が「経世の学」(統治の学)である以上、苦渋の思いの中で、明滅亡の原因をも考えねばならなかった。彼らは、華美と私欲に流れ、「文弱」に陥った漢人の側にも非があると考えたのである。

 康煕帝は、その治世(1661〜1722)の終わり近くになって、外モンゴルチベットを服属させることに成功した。モンゴル系のジュンガルとは骨肉の争いを続けたが、決着は孫の乾隆帝の治世(1735〜95)に持ち越された。康煕帝の中にも、モンゴル人の血は流れていた(祖母[順治帝の母]はモンゴル人、母は漢人だった)。チベットとの関係は複雑で、モンゴル人の統治のためには、チベットを是が非でも掌握しなければならなかった。16世紀後半のアルタン=ハンの時から、モンゴル人がチベット仏教ラマ教に帰依していたからである。清朝皇帝は、ラマ教の最大の保護者(文殊菩薩皇帝)になる必要があったのである。一方、清朝皇帝は、満州人・モンゴル人などの北方民族社会のハンでもあった。さらに乾隆帝は、満州人の伝統が廃れることを恐れ、紫禁城内での盛大なシャーマニズム儀礼満州祭神祭天典礼」を復活させた。

 康煕帝雍正帝乾隆帝は、自ら儒学・詩文などの中国文明を摂取し、『康煕字典』・『古今図書集成』・『四庫全書』などの大編纂事業を命じて、名実ともに中国皇帝となった。しかし同時に大ハンであり、文殊菩薩皇帝でもあったのである。新疆成立後は、ウイグルなどムスリムの保護者にもなった。しかも、禁書・文字の獄などの思想・言論統制をゆるめることはなかった。皇帝たちは「中華」を自認したが、清朝は、中国文化を周囲の地域に及ぼすことで帝国になったのではなかったのである。統治の仕組みとして科挙を重視した清朝であるが、皇帝自身にとって儒学は相対的なものであった。

 18世紀に経済は活況を呈し財政的にも清朝を支えていたが、乾隆末期から次の嘉慶帝の時代(1796〜1820)にかけて、大きな転換期を迎えた。それは、イギリス外交官マカートニー、アマーストの来朝(1793、1816)や白蓮教徒の乱(1796〜1804)に象徴される。

 ちょうどこの時期に盛んになったのが、考証学であった。考証学は、実証を重んじる文献学で、文字や音韻の研究を含んでいた。(当時の学者たちにとって、五経や『論語』・『孟子』は、すでに2000年以上前の文献であった。)この中で、顧炎武黄宗羲王夫之考証学の祖とされたのである。禁書・文字の獄が学者たちを文献学に向けさせた面はあるが(禁書・文字の獄が最も厳しかったのは乾隆帝の時代であった)、考証学は必ずしも無味乾燥な学問ではなかった。古典に帰ることで、古典と朱子学朱子学の成立は12世紀の南宋の時代)の相違も明らかとなっていった。特に戴震は、『孟子』を研究しながら、朱子学批判に至った。荀子墨子が再発見されたのも、公羊学への注目が起きたのも、この時代である。表だって清朝批判を行うことはできなかったが、考証学は、少しずつ「経世の学」としての面を取り戻しつつあった。儒学者たちは黙々と静かな苦闘を重ねたのである。「経世の学」は、19世紀半ばの林則徐魏源で顕在化する。そしてこの流れは、「西洋の衝撃」に見舞われる中で、洋務運動の曾国藩や立憲派の康有為梁啓超へとつながったのである。しかし「経世の学」の復活も、清朝の維持という枠を突破することはできなかった。

 20世紀以降激しい批判にさらされた儒学は、現在の中国ではその生命力を失ったかに見える。しかし、2000年以上にわたる伝統的な思考方法は、100年で消え去るものだろうか? 社会主義イデオロギーも形骸化した今、新たな「経世済民の学」が求められていることだけは確かである。また、ロシアへの領土割譲はあったものの、清朝の広大な版図は、中華民国中華人民共和国へと、ほぼ引き継がれた。清という複合的な帝国を考えることは、現在の中国の国民意識チベット・新疆の問題を考えることにもつながっている。

《参考文献》
 湯浅邦弘編『概説 中国思想史』(ミネルヴァ書房
 平野聡『大清帝国と中華の混迷』(興亡の世界史17[講談社])
 岸本美緒・宮嶋博史『明清と李朝の時代』(中央公論社版世界の歴史12)