古代 東アジア 【倭への漢字伝来と東アジア】

■倭で漢字・漢文の本格的な学習が始まったのは、太刀銘や銅鏡銘から、5世紀と考えられている。『古事記』と『日本書紀』によれば、朝鮮半島百済(中国の東晋南朝・宋と関係が密であった)から『論語』と『千字文』が伝えられ、漢字・漢文を教えるため学者・王仁[わに]が渡来したという。5世紀の初め頃のこととされる。ただ、『千字文』の成立は6世紀の半ばであり、王仁の実在も疑問視されている。一方、いわゆる「倭の五王」の南朝・宋への上表文は、いずれも5世紀のことである。南朝・宋への朝貢は、421年から478年まで、少なくとも9回に及んだ。そして、有名な「倭王武の上表文」は、駢儷体(六朝時代の技巧的な文体)の見事な漢文であるという。これらのことからわかるのは、次の三点である。

 ①漢字・漢文が倭の支配層に入ってきていたこと
 ②倭の支配層に、外交文書に携わる専門家がいたこと
 ③<南朝・宋−百済−倭>という国際的なつながりがあったこと

①については、『千字文』とは異なる、何らかの典籍が百済を通じてもたらされたと考えられている。また②の専門家は倭人ではなく、百済経由で渡来した漢人あるいは漢文を身につけた百済人であると考えられている。(史[ふひと]である。)③からは、百済と倭が南朝冊封体制の中で力を確保しようとしていたことがわかる。その背景には、華北に騎馬遊牧民が進出するという激動(五胡十六国時代南北朝時代)と朝鮮半島での高句麗百済新羅の対抗関係があった。(なお、朝鮮三国と呼ばれるが、高句麗新羅百済に、同じ民族としての意識はなかった。「朝鮮」という民族意識が形成されていくのは、14世紀末に李氏朝鮮が成立してからである。)③の<宋−百済−倭>というラインは、②のような人の移動をもたらし、倭の漢字・漢文受容にも大きな影響を与えたのだった。(なお4世紀末から5世紀前半にかけて、半島南部の加耶系の渡来人が須恵器や鉄器の技術を伝えた。)

 この当時倭に伝わった漢字の音[おん]が、いわゆる呉音である。この場合の呉は王朝名ではなく、長江下流域を指す。長江下流域の発音が倭に伝わったのである(音韻体系が異なるため、発音は倭語化された)。たとえば、「人」の「ニン」という読み、「行」の「ギョウ」という読みが呉音である。これに対し、同じ漢字の「ジン」・「コウ」という読みは漢音と呼ばれ、唐の時代の長安の発音がもとになった。奈良時代の終わりから平安時代の初めにかけて朝廷は漢音に統一しようとしたが、うまくいかなかった。すでに呉音系の読みが300年の歴史を持っていたからである。普段私たちは2種類の音読みを全く意識していないが、漢字の音読みにはこのような歴史があり、両方の音読みは併存して今日に至ったのである。

 朝鮮漢字音は、日本の呉音・漢音とも異なるという。朝鮮の場合、半島北西部に400年にわたって(前漢武帝時代の前108年〜西晋末期の313年)、中国王朝の前線基地である楽浪郡があった。漢字文化はあまり流入しなかったと考えられているが、今後の研究の進展が待たれる。百済の支配層が漢字を使用するようになったのは5世紀とされるので、あまり時間をおかずに倭へ入ってきたことになる。6世紀に入ると、百済を通した漢字・漢文の摂取は本格化する(南朝との関係は弱まった)。百済からは、五経博士と呼ばれた一流の学者が次々とやって来た。6世紀の半ば、聖明王の時代には、仏像と仏教経典が公式に伝えられた。仏教経典ももちろん漢文であったが、奈良時代にかけて、膨大な量の経典が伝わり、写経されたのである。

 仏教伝来から約半世紀後に書かれた漢文が、聖徳太子の「十七条憲法」(604)であった。漢文としては、ぎこちなさが残っているという。その後まもなく(630)、第1回の遣唐使が派遣された。漢音は、この遣唐使によってもたらされたのである。しかし、東アジアは激動する。660年、百済は唐・新羅の連合軍に滅ぼされた。<百済−倭>ラインの最後が、663年の白村江の戦いであったが、敗北した。(高句麗も滅ぼされ、半島は新羅によって統一された。)百済滅亡の結果、多くの百済人が倭に逃れ、結果として倭人の漢字・漢文習熟に貢献することになる。奈良時代初期(720)の日本書紀は、日本人の手により、完成度の高い漢文で書かれた。

 しかし、日本人(倭人)の漢字・漢文との格闘は続いていた。日本語(倭語)と中国語は言語系統を異にし、音韻体系も、語彙も、文法も違っていたからである。漢字と漢字音受容の過程で使用されたのが万葉仮名であったが、同時に倭語を漢字で表す努力も重ねられた。それが、「」である。その試みは、6世紀から始まっていた。漢字の音を受け入れるだけでなく、日本語(倭語)を漢字で書き表すことが開始されたのである。最初は、複数の「訓」があったという。8世紀にかけて(200年以上かけて)、漢字の「訓」は徐々に定まっていった。(たとえば「池」を「いけ」と読むように定まった。)そしてさらにこの中で、漢文を日本語に読み替えるという、漢文訓読が行われていった(7世紀末から?)。送り仮名や返り点が考案されたのである。これは、世界に類例を見ない、外国語テキスト学習法であった。片仮名(カタカナ)は、仏教経典の訓読の過程で成立していった。

 日本の漢字の複雑な音読みと訓読みには、古代東アジアの歴史と<漢字文化の日本化>の苦闘が、刻まれているのである。

※日本という国号の使用は、7世紀後半からとされている。

《参考文献》
 大島庄一『漢字伝来』(岩波新書
 礪波護・武田幸男『隋唐帝国と古代朝鮮』
 松岡正剛『日本という方法』(日本放送出版協会
 田中俊明「朝鮮地域史の形成」(『講座世界歴史9』[岩波書店]所収)