近代 東アジア 【アメリカ東インド艦隊、浦賀へ】

★1953年(嘉永6年)7月8日、ペリー司令長官率いるアメリ東インド艦隊4隻が浦賀沖に現れた。うち2隻は、当時最新鋭の蒸気軍艦(マストもあり蒸気走と帆走を兼ねた)であった。アメリカ人フルトンが蒸気船を発明してから(1807)、わずか46年後のことである。本来はアメリカ・メキシコ戦争(1846〜48)向けに建造されたものであったが、予想より早く戦争が終結したため、日本に向け航行することとなった。東インドという名称は、イギリス東インド会社(1600設立)以来の使い方で、インド以東を指していた。

 ペリーの一行は、太平洋を渡って来たのではない。前年11月アメリカ東部を出港し、大西洋を南下、アフリカ南端の喜望峰ケープタウン)を回り、セイロン島、シンガポールを経て、53年4月香港に到着した。この航路でもわかるように、アメリカはまだ独自の補給ルートを持たず、イギリス植民地に拠点を持つイギリスの会社に頼らざるを得なかった。なお、ペリー一行が到着した中国は、アヘン戦争から10年余り、列強の脅威にさらされながら、太平天国の乱(1851〜64)のただ中にあった。ペリーは、上海でその争乱の様子を知ることになる。

 浦賀では、アメリカの4隻を、日本の船数十隻が取り囲んだ(意外なことであるが、多くは会津藩の船であった。会津藩江戸湾の防備にあたっていたのである。)。幕府は1852年4月、オランダからペリー一行の来航情報を得ていた。ペリーの名も知っていたのである。翻訳された「オランダ別段風説書」には、「シスシスシッピー、この船に船将ペルレイまかりあり」(「ミシシッピー号にペリー長官が乗っている。」)と書かれていた。老中首座阿部正弘(53年当時わずか34歳であった)はこの情報を主な譜代大名薩摩藩島津斉彬に伝え、浦賀の防備を強化していた。浦賀奉行所の役人2人の乗った船が旗艦サスケハナ号に近寄った。そのうち1人が、旗艦の甲板に向かって叫んだ。

  “ I can speak Dutch ! ”

オランダ語を話せる。」これが、日米交渉の始まりであった。ペリー側は、用意していたオランダ語通訳を甲板に出した。日本とオランダの交流は周知の事実であった。二人(オランダ語通訳と与力)は、艦長室に入りペリーの副官と交渉に入ったのである。こうして、交渉による開国への道が開かれた。海軍のない幕府には、アメリカと戦うという選択肢はなかった。(幕府はアヘン戦争の情報を得て、分析していた。)一方ペリー側も、大統領命令により「発砲厳禁」の方針をとっていたのである。

 7月14日、久里浜にペリー一行300人が上陸し、フィルモア大統領の国書を幕府側に渡した。国書は周到に準備されていた。英語が通じないことを知っていたペリー側は、オランダ語訳に加えて漢文訳まで用意していた。秘書として中国の文人まで雇っていたのである。(この文人は、浦賀に来る前、アヘン中毒で死亡したという。)大統領の日本皇帝宛て国書(ぺりーは「日本は同時に二人の皇帝を有する奇異な体制をとっており、一人は世俗的皇帝、もう一人は宗教的な皇帝」と解釈していたが、「世俗的皇帝」=将軍を交渉相手に選んだ)には、大きく3点の要求が書かれていた。①アメリカ人漂流民とその船舶の保護、②物資補給・船舶修理のための入港許可、③貿易のための入港許可である。

 この要求の背景には、太平洋北部におけるアメリカの捕鯨があった。現在では考えられないことであるが、1840年代を中心に、アメリカは盛んに捕鯨を行っていた。捕鯨船の船員は7万人に達し、日本近海で操業する捕鯨船も300隻にのぼった。鯨油を照明用ランプの油に使うためであった。また、アジア進出は、アメリカ・メキシコ戦争でカリフォルニアを獲得したアメリカにとって、「明白な宿命」の延長上にあった。ペリー一行は、計画通り江戸湾を測量して、いったん中国に戻った。

 1854年3月、日米和親条約が結ばれ、貿易を除きアメリカは目的を達成した。条約はアメリカだけに最恵国待遇を認めるなどの不平等はあったが、日本は戦火を交えることなく、19世紀半ばの国際社会に入っていったのである。日本が、江戸時代を通じて、オランダ語というヨーロッパの言語の一つを学んでいたことは、極めて重要なことであった。(清朝には、そのような文化的蓄積がなかった。)なお、見逃せないのは、ペリー一行が浦賀に来る前、琉球と小笠原に立ち寄り、特に琉球地政学的重要性を認識していたことである。

 19世紀半ばと同様、1940年〜41年段階でも日米の国力の差は大きかったにもかかわらず、幕末の歴史的な日米交渉が思い起こされることはなかった。今日の日本では、避け得たであろうパールハーバーを思い起こすこともなくなった。
 そして、アメリカの濃い影が沖縄をおおっている。

《参考文献》
 加藤祐三『幕末外交と開国』(ちくま新書
 田中彰『開国と倒幕』(集英社版日本の歴史15)