古代 南アジア・中央アジア 【驚きのクシャーナ朝】

★普通クシャーナ朝(1世紀半ば〜3世紀半ば)は、古代インド史で扱われ、カニシカ王の第4回仏典結集と大乗仏教ガンダーラ美術ぐらいで終わってしまう。シルクロードの要衝で栄えたことが加われば十分、という感じだろうか。しかしクシャーナ朝は、古代インド史だけではとらえきれない。日本では仏教の発展史に引きつけて位置づける傾向が強いが、もともと中央アジアのアム川上流域から興った、イラン系の王朝であり、ガンダーラ地方、ガンジス川流域へと支配領域を広げた。カニシカ王(2世紀半ば)が都としたプルシャプラは、現在のパキスタン北部(ペシャワール)である。
 しかし、中央アジアの古代史が独立して扱われることはないので、理解は簡単ではない。バクトラ、マラカンダ(のちのサマルカンド)という都市があったアム川上流域は、アレクサンドロスの東方遠征(アジア側から見ればギリシア人の侵略であるが)により、その帝国の領域に入った。この地方に、ギリシア人も移住してきたのである。その後、ヘレニズムのセレウコス朝との関連でバクトリアが出てきたり、前漢との関連で大月氏が出てきたりしてわかりにくいが、前2世紀〜前1世紀のアム川上流域で、<バクトリア→(大夏)→大月氏>という支配者交代があった。そして大月氏の諸侯の争いの中から、クシャーナ朝が成立するのである。ここで重要なのは、バクトリア(領域はガンダーラ付近まで及んでいた)のギリシア文化が引き継がれていたことである。一方インド北西部にも、前2世紀後半にギリシア人王国があった。仏教に帰依したメナンドロス王(ミリンダ王)が有名である。
 クシャーナ朝では、驚くべき諸文化混在の状況があった。歴代の王たちは、さまざまの称号を使っていた。バシレオス(ギリシア語系)、マハーラージャ(インド語系)、イーシュバラ(インド語系)、シャオ(イラン語系)、カイサラ(カエサルがなまったもの)などである。また、さまざまの神や仏が貨幣を飾った。ヘラクレスシヴァ神、ミトラ神、ブッダなどである。カニシカ王の金貨には「王中の王、クシャーナのカニシカ」と刻まれていたが、これは東部イラン語をギリシア文字で刻んだのである。カニシカ王は、仏教だけを保護したのではない。バクトリア地方南部には、ゾロアスター教の大規模な拝火神殿も造られていた。
 クシャーナ朝は、諸文化が混在する、エネルギーに満ちた場であった。そのような場から、1世紀末、ガンダーラ美術が生まれた。ギリシア神を打ち出した、バクトリアやメナンドロスの貨幣の流通が、その素地をつくったと考えられている。そして2世紀初め、ガンジス川上流のマトゥラーでも、仏像が制作された。こちらは純インド風であったが、マトゥラーはカニシカ王が副都(ガンジス川流域支配の拠点)とした都市であった。

《参考文献》
 山崎元一『古代インドの文明と社会』(中央公論社版世界の歴史3)