古代 地中海世界 【ギリシア語で書かれた『新約聖書』】

■イエスアラム語を話したが、『新約聖書』はギリシア語(コイネーと呼ばれる、ヘレニズム期にオリエントまで広まったギリシア語)で書かれた。この背景には、パレスチナ地方の複雑な言語状況があった。
 当時のパレスチナ地方は、次のような多言語状況にあったのである。

  ①ユダヤ人を含め、多くの人々は日常的にアラム語を話していた。
  ②ユダヤ教に関わる宗教文書は、ヘブライ語で書かれた。(『旧約聖書』はヘブライ語で書かれていた。)
  ③ヘレニズムの影響を受けた都市部では、ギリシア語が話されていた。知識層はギリシア語を読み書きした。
  ④ローマの支配が及ぶようになり、支配者の言語としてラテン語も入ってきていた。

ヨハネによる福音書」の次の箇所は、②③④の状況をよく表している。

  『ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには「ナザレのイエスユダヤ人の王」と書いてあった。…それは、ヘブライ語ラテン語ギリシア語で書かれていた。』(新共同訳)

公の罪状書きだったので、民衆語のアラム語は使われなかったと考えられる。

 ③については、次のことを確認したい。ヘレニズム時代(前334〜前30)に、ギリシア語は共通語として地中海東部に広まった。ヘレニズム王朝であるセレウコス朝は約240年間シリアにあり、プトレマイオス朝は約270年間エジプトにあった。この期間に、都市部にギリシア語が浸透したのである。それは、紀元後になっても、しばらく変わらなかった。王朝や王国の滅亡とともに言語や文化も滅びるような錯覚に陥ってはならない。ヘレニズム王朝が滅んでも、ギリシア語は滅びなかったのである。そして、地中海東部のこのギリシア語圏はローマ時代も生き続け、のちにビザンツ帝国の領域になっていった。
 通常、ヘレニズム世界最後の女王クレオパトラとイエスを比べることはないが、クレオパトラの自殺(前30)から20数年後にイエスは生まれている。イエスは、普段アラム語を話しながら、ギリシア語圏に接して生涯を送った。イエスはある程度ギリシア語を話したり読んだりしたと、考えられている。もちろん、宗教語としてのヘブライ語も理解していた。

 イエスの死(後30)の直後、最初期のキリスト教会ではアラム語が話されたと考えられている。同時にイエスの教えは、宗教文書としてはヘブライ語でも記録された。そしてまもなく、さまざまな記録や伝承が都市部のギリシア語圏でまとめられていき、「福音書」も成立していった。最初に「マルコによる福音書」がギリシア語で書かれたのは60年代と言われるが、そのギリシア語は必ずしも流暢なものではないという。アラム語母語としたと考えられるマルコは、しかし、ギリシア語で生き生きとイエスの活動を伝えた。「エウァンゲリオン(福音)」というギリシア語を最初に使用したのも、マルコであった。「マルコによる福音書」は、アラム語世界のキリスト教からギリシア語世界のキリスト教への転換期に成立したのである。

 イエスの教えがギリシア語で書かれた(=思索された)ことの意味は大きい。ユダヤ教を母胎としてパレスチナ地方で生まれた宗教が、ギリシアのロゴスと出会うことになったからである。ギリシアのロゴスとの出会いとその変容がなければ、「ヨハネによる福音書」(90年代に書かれた)の冒頭の言葉は書かれなかったであろう。

 「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神と共にあった。言(ことば)は神であった。」(新共同訳)

 「言(ことば)」とは、ロゴスのことである。そして、イエスは「言(ことば)[=ロゴス]の受肉」として理解されることになる。パウロの手紙も、のちの「三位一体」論も、ギリシア語・ギリシア哲学との出会いがもたらした、徹底した論証のキリスト教的な展開と考えることができるだろう。

 こうして、初期キリスト教は、都市部のギリシア語の宗教として成立した。ユダヤ教と違い、キリスト教はヘレニズムの遺産の上に成立したのである。言語の面でも教えの内容の面でも、最初から民族の差異を超える宗教として、普遍性を求める宗教として、出発したのだった。

《参考文献》
 『新約聖書 新共同訳』(日本聖書協会
 田川健三『書物としての新約聖書』(勁草書房
 土岐健治『イエス時代の言語状況』(教文館
 坂口ふみ「<個>概念の変奏」(『ヘラクレイトスの仲間たち』[ぷねうま舎]所収)

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