★津野田興一「アケメネス朝ペルシャの言語」(朝日新聞)への疑問

★「朝日新聞」(2015年5月28日付)に掲載された「歴試学のススメ(世界史編)・アケメネス朝ペルシャの言語」は、大学入試問題で歴史を学ぶというシリーズで、なかなか面白いものでした。しかし、疑問も感じました。入試問題の解答例は許容範囲に入ると思いますが、解説は歴史を正確に伝えていなかったと思います。

★解説では、アケメネス朝ペルシャ帝国の言語状況が極めて単純化されており、「二つの言語と二つの文字を併用していた」と述べられています。ペルシャ語アラム語楔形文字とアラム文字を指しているのですが、アケメネス朝で使われていたのは二つの言語だけではありません。また楔形文字も、表音化したペルシャ文字として使用されていました。「主要な言語についての解説なので」という弁解が予想されますが、読者が歴史を誤解するような解説であってはならないでしょう。

★有名なベヒストゥーン碑文は、古代ペルシャ語アッカド語バビロニア語)・エラム語で書かれていました[このことは、高校生が使う『世界史用語集』(山川出版社)にも載っています]。アラム語が共通語であったことは重要ですが、アッカド語バビロニア語)・エラム語も重要な共通語であったことを述べなければなりません。アラム語が共通語になったのは、アケメネス朝後半という見方もあります。また、アナトリア西部では、ギリシア語も共通語でした。

★「商業用語としてのアラム語」は、高校世界史では必須事項です。しかし、商業文書はアッカド語で書かれたものも見つかっていますし、王室経済文書はエラム語で記されていました。[歴史学研究会編『世界史史料1』を参照ください。]

アラム語に焦点を当てるという意図はわからないではありませんが、安易な単純化は歴史を歪めてしまいます。アッカド語アラム語も、すでにアッシリア帝国で共通語でした。エラム語は、イラン高原南西部からメソポタミア南部にかけての共通語でした。つまり、アッカド語アラム語エラム語もすでに共通語として広まっていた中で、アケメネス朝が成立しました。広大なオリエントの統治のために、当時の言語状況をそのまま認め、活用したのです。ペルシャ語のみを強要するなどということはできなかったわけですし、これは、アレクサンドロス帝国でも、ローマ帝国でも、モンゴル帝国でも、同様でした。

★歴史的な「多言語・多文化・多民族社会」の理解が、現在の世界・これからの世界を考えるうえでも重要であることは、論を待ちません。しかし、読者が勘違いするような文章を新聞紙上に書いてはいけないでしょう。アケメネス朝ペルシャ帝国だけが「多言語・多文化・多民族社会」であったわけではないのです。上記の諸帝国もそうですが、近代の国民国家形成以前は、世界の多くの地域が「多言語・多文化・多民族社会」でした。この事実に目を向けることのほうが大切です。

★アケメネス朝の言語状況は「事実上の共通語である英語とそれぞれの母語」という現在の状況と同じであると、述べられています。しかし、このように単純で皮相なアナロジーは、かえって歴史の見方を誤らせてしまいます。英語の世界共通語化は、18・19世紀以降の覇権国家(イギリス〜アメリカ)の歴史と深く関わっています。これは、アケメネス朝の言語状況とは異なります。オリエントの覇権を握ったアケメネス朝のペルシャ語が共通語として広まったわけではないのです。また、アケメネス朝を「世界帝国」と呼ぶことは、避けるべきでしょう。のちの「イギリス帝国」などとは、全く性格を異にするからです。

★『世界の歴史4』(中央公論新社)をもとにした地図が掲載されていました。しかし、なぜか、同書の本文の記述は無視されてしまったようです。同書の146ページの文章を紹介して終わりたいと思います。

 「当時のオリエント世界の共通語は、バビロニアアッシリアで使われたアッカド語であったが、ペルシア帝国内部の事務的また実用的な文書にはエラム語が用いられた。それは帝国内へのエラム人の浸透ぶりを示すものといえよう。しかも、共通語は、より簡単で覚えやすいアルファベットを使うアラム語にかわりつつあった。ペルシア帝国の共通語がアラム語になるのは、紀元前四世紀初めのことである。」

※関連ページ ➡ 単純化で見えなくなるもの【「歴試学のススメ」について】