中世 イスラーム世界・ヨーロッパ 【12世紀・イベリアの光の中で】

■1168年頃イブン・ルシュド(1126〜98)は、コルドバで、師のイブン・トゥファイルとともに、ムワッヒド朝のスルタンに謁見していた。彼は回想している。

 『王は「天についての彼ら哲学者の考えはどのようなものか。天は永遠か、あるいは創造されたものか」と私に質問した。私は当惑と恐怖に襲われた。…王はイブン・トゥファイルの方を向いて、二人で議論し始めた。王は、この議論の中で、アリストテレスプラトン、そしてその他のすべての哲学者が言ったことに言及し、さらにムスリム神学者の異端についても言及した。』(竹下政孝訳)

 当時のコルドバの知的状況がよくわかる回想である。イブン・ルシュドが感じた「当惑と恐怖」とは何か? それは、異端の嫌疑がかけられる可能性への「当惑と恐怖」であった。スルタンは、イブン・ルシュドが正統なウラマー(法学者)かどうか、自ら質問して確かめたのである。この後、イブン・ルシュドはスルタンの信頼を得て、哲学者として、また大法官・宮廷医として活躍した。

 イスラーム世界では、9世紀以降、ギリシアの哲学的・科学的遺産が次々とアラビア語に翻訳された。哲学書は大半がアリストテレスのものであった。外来の学問として、積極的に受容したのである。アラビア語で哲学はファルサファと呼ばれるが、これはギリシア語のフィロソフィアから来ている。

 コルドバに生まれたイブン・ルシュドは、古代ギリシアの哲学者アリストテレスに強い敬愛の念を抱き、ほとんどの著作の注釈書を完成させた。先行するイブン・シーナーのアリストテレス解釈を超え、ガザーリースーフィズムを神学に導入した、セルジューク朝の学者)を批判して、『クルアーンコーラン)』と哲学の調和を図ったのだった。

 イブン・ルシュドの著作は、同じイベリア半島のトレドでラテン語に翻訳された。(まもなくシチリアと北イタリアでも翻訳活動が展開された。)レコンキスタの波を浴びながらも、トレドではキリスト教徒・イスラーム教徒・ユダヤ教徒が共存していた。この三者の交流の中から、翻訳活動が盛んとなり、ギリシア哲学がラテン世界へと本格的に入っていったのである。イブン・ルシュドは、ラテン世界ではアヴェロエスとよばれたが、信仰と理性をめぐる彼の思想は、まもなくトマス・アクィナスらに極めて大きな影響を与えることになる。翻訳活動が、文化の再創造をもたらしたのであった。(「12世紀ルネサンス」とも呼ばれる。)

 アリストテレス哲学の援用によってイスラーム信仰を基礎づけようとしたムワッヒド朝の施策は、しかし、12世紀末突然転換された。北からのレコンキスタの圧力が、イスラーム信仰の純化を要請したのかも知れない。イブン・ルシュドが回想の中で述べていた「恐怖」は、この時点で現実となったのである。彼は地位を追われ、コルドバを去らねばならなかった。ジブラルタル海峡を渡ったイブン・ルシュドは、モロッコでその生涯を閉じた。

 13世紀前半、コルドバはとうとうキリスト教徒の手に落ちる。しかし、ちょうどその頃、イブン・ルシュドの注釈書は、ピレネーの北で神学者たちの心をとらえたのだった。

《参考文献》
 山本芳久「イスラーム哲学 ラテン・キリスト教世界との交錯」(鈴木泉ほか編『西洋哲学史Ⅱ』[講談社選書メチエ]所収)
 樺山紘一『地中海』(岩波新書