近代 ヨーロッパ 【ランボーは、ヨーロッパを去った】

◆19世紀の後半、一人の詩人が疾風のようにフランスを駆け抜けていった。アルチュール・ランボー(1854〜91)。1873年、18歳で詩集『地獄の季節』を出版したランボーは、翌年詩集『イリュミナシオン』を完成し、原稿を詩人ヴェルレーヌに託した。しかし、20歳で詩を捨てる。以後は、主にアラビア半島エチオピア、エジプトなどを転々としながら、貿易商として生きたのだった。

 1871年、16歳のランボーは、中学校の先生宛に書いていた。

 「狂おしい怒りが、あのパリの戦闘へとぼくを駆り立てる時も、ぼくの心を領しているのは、この考えなのです。…ぼくは詩人になりたいと思って、ぼくを見者にしようと努力しているんです。…問題は、あらゆる感覚を狂乱せしめることによって、未知のものに到達することなんです。…私は考える、というのは誤りです。ひとが私を考える、と言うべきでしょう。…私とは一個の他者なのです。」(宇佐見斉訳)

「パリの戦闘」とは、パリ・コミューンのことであった。ランボーは、プロイセン・フランス戦争(1870〜71)の敗北とその後の時代を生きていた。(パリ・コミューンは鎮圧され、1875年には第三共和国憲法が成立する。)「見者」(ヴォワイヤン)については、さまざまに解釈されてきた。また「私は考える」はデカルトの言葉であるが、これを否定する現代哲学的な視点(「私とは一個の他者なのです」)には驚かされる。

 ランボーが求めていたのは何か。『地獄の季節』には、次のような有名な一節がある。

 「あれがまた見つかった /  何が? 永遠が」(清岡卓行訳、以下同じ)

この「永遠」は、神につなるような永遠ではなく、キリスト教の世界観を超えるような永遠である。

 同じ時代をプロイセン〜ドイツで生きていた人物がいる。ニーチェである。ニーチェは『ツァラトゥストラ』(1883)の中で、繰り返し述べている。

 「わたしはおまえを愛しているのだ、おお、永遠よ。」(手塚富雄訳)

 キリスト教への呪詛に近い言葉とともに、二人は極めて近接した地点に立っていた。ヨーロッパ精神の危機を感じ取っていた。ただ、ランボーの中に「永遠回帰」はない。
 
『地獄の季節』には、次の言葉が見いだされる。

 「ぼくは決して自分の姿を、キリストの教えのなかに見いださない。」
 「ああ悲しいことに! 福音は去ったのだ! 」
 「ぼくはヨーロッパを去る。海の空気はぼくの肺を焼くだろう。」

 ランボーは、「東方」を目ざした。アラビア語やアムハラ語(エチオピアの言葉)を習得しながら、10数年を商人として旅した。

 しかし「東方」は、すでに智恵や新しい生をもたらすような場ではなかった。ヨーロッパの商人たちも、アラブ人や黒人も、利を貪るのに必死だった。しかも、ランボーが歩いた地域には、帝国主義の嵐が吹き荒れていた。オスマン帝国は瀕死の状態であり、イギリスは1882年エジプトを支配し、エチオピアの周辺にはイタリアが勢力を伸ばしていた。また、フランスはチュニジア保護国とし(1881)、アフリカ分割のベルリン会議が開かれていた(1884〜85)。

 このような状況の中で、ランボーは武器をも売りさばいていたのである。多分彼は、永遠という思念も捨てていた。疲労は甚だしく、健康が蝕まれた。パリでは詩人としての名声が高まっていたが、ランボーはそれを一顧だにしなかった。1891年5月、ランボーは癌を疑われ、マルセイユの病院で右足を切断した。亡くなったのは、その半年後であった。
 
 ランボーの詩は、今も鮮烈なまま、私たちの前にある。

 「おお季節よ、おお城よ! /  どんな魂が無疵なのだ?」

《参考文献》
 『ランボー詩集』(清岡卓行訳、河出書房)
 『ランボー詩集』(粟津則雄訳、新潮社)
 『ランボー全詩集』(宇佐見斉訳、ちくま文庫
 橋本一明『純粋精神の系譜』(河出書房)
 ブロッス「ランボーの沈黙」(有田忠郎訳、「ユリイカ」[特集ランボー」1971年4月臨時増刊号[青土社]所収)
 ニーチェツァラトゥストラ』(手塚富雄訳、世界の名著46[中央公論社])