近世 ヨーロッパ 【血液は、循環している】

★心臓の働きと血液の循環を立証したハーヴェイ(1578〜1657)は、高校の世界史でも倫理でも、あまりに軽く扱われている。1628年出版の『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』は、17世紀科学革命の一翼を担う、重要な書物であった。
 後のダーウィンの進化論が最初受け入れられなかったように、多くの人は血液循環を馬鹿げていると思い、医師たちはみな彼に敵意を持った。ハーヴェーは開業医であったが、患者はひどく減ってしまったという。しかし彼の学説は、まもなくヨーロッパ中に受け入れられた。

 ハーヴェイには、アリストテレス(前4世紀)以来の哲学的・科学的精神が脈打っていた。彼は、イタリアのパドヴァ大学に留学してアリストテレスの哲学・自然学やガレノス(2世紀のローマの医学者)の医学を学んだ。そして何より重要なのは、パドヴァ大学が解剖学のメッカだったことである。(パドヴァ大学教授ヴェサリウスの『人体の構造について』[1543]は近代医学の始まりを告げていた。)パドヴァでは、学生たちの前で、年に1度2週間をかけて、処刑された複数の犯罪者の遺体が解剖されていた。イギリスに戻ったハーヴェーは、全く独力で解剖学的研究をおし進めた。アリストテレスはすでに「心臓は最も重要な器官」であると述べていたが、ハーヴェイは「動物全般にとって心臓は何のためのものか」を探求した。そして、動物の数多くの解剖例をもとに、誰一人考えもしなかった、血液の循環という事実を発見したのである。

 ハーヴェイは、ステュアート朝のジェームズ1世とチャールズ1世の侍医でもあった。『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』が出版された年は、議会がチャールズ1世に「権利の請願」を提出した年である。ハーヴェイの著書の冒頭には、チャールズ1世への献辞がおかれ、国王を国家の心臓にたとえて王を賛美していた。1649年チャールズ1世の首が大きな斧で切り落とされたが、ハーヴェイは終生王政を支持していた。

 ハーヴェイは、同時代のデカルトガリレイから始まる機械論的自然観を持ってはいなかった。心臓も血液も、生きたものとして理解していた。国王を国家の心臓にたとえたように、心臓は人体の中心に位置する特別な器官であった。(古来心臓は魂の座であり、15世紀から描かれてきたハート型は私たちの中に根づいている。)しかし、心臓と血液循環が一体のものとして立証された以上、心臓は次第に魂の座から一つの器官へと変貌を余儀なくされた。ハーヴェイは、大きな歴史的文脈から見れば、現在の<脳死→臓器移植>という考え方への1ページを開いたのである。

※同時代  レンブラント「トゥルプ博士の解剖講義」(1632) ケプラー『宇宙の調和』(1619) ベーコン『ノヴム・オルガヌム』(1620) ガリレイ『天文対話』(1632) デカルト方法序説』(1637) ホッブズリヴァイアサン』(1651)

《参考文献》
 ロイ・ポーター編『大科学者たちの肖像』(朝日新聞社
 樺山紘一『歴史のなかのからだ』(岩波現代文庫
 小池寿子『内蔵の発見』(筑摩選書)

※関連テーマ 【心臓・魂・ハート型】