近世 ヨーロッパ 【カントの町・ケーニヒスベルク】

■カント(1724〜1804)は東プロイセンケーニヒスベルクに生まれ、一度もこの都市の外に出ることなく生涯を終えた。同じドイツのベルリンやフランクフルトやミュンヘンほどには知られず、今はロシア領カリーニングラードになってしまった都市。しかし、そこに近代ヨーロッパ最大の哲学者カントがいて、人間の理性の可能性と限界をぎりぎりまで考えた。

 ケーニヒスベルクは、ドイツ騎士団領の砦として、13世紀半ばに建設された。14世紀半ばにはハンザ同盟の一員となり、バルト海に臨む港町として発展していった。ドイツの他の都市と違うのは、東はずれのドイツ語圏として、リトアニア語圏・ポーランド語圏と交流があったことである。カントは、晩年『リトアニア・ドイツ、ドイツ・リトアニア語辞典』の後書きを執筆し、地域の少数者の言語が大切にされなければならないと説いた。

 カントの時代には、植民地の物産を積んだ、イギリスやオランダの船が出入りし、移住してきたフランス人(ルイ14世の「ナントの王令」廃止による、ユグノーの移住)が活躍していた。ユダヤ人も商業・金融に携わっていた。言わば、多文化の状況が、日々の生活の中にあったのである。カント自身が、次のように書いている。

 「一国の中心である大都会であって、そこには、国を統治する諸官庁があり、一つの大学(諸科学の陶冶のための)をもち、さらに海外貿易の要地を占め、したがって国の奥地から流れてくる河流によって奥地との交流を助長するとともに、言語風習を異にした遠近の国々との交通にも便利であるような都市、たとえばプレーゲル川に沿ったケーニヒスベルクのごときは、たしかに世間知をも人間知をも拡張するのに恰好な場所と考えることができ、そこに居れば、たとえ旅行しなくとも、このような知識を得ることができる。」(『人間学』序文、坂部恵訳)

 このような地理的・文化的環境の中で生きたカントとその哲学は、民族的偏見からは遠く離れていた。カントがスコットランド人の血を引いていたことも重要である。彼の曾祖父・祖父は、スコットランドからの移住者であった。スコットランドの哲学者ヒュームの影響は、偶然ではないだろう。カントの「世界市民的見地」は、単なる机上の言葉ではなかったのである。

 カントは、フリードリヒ2世(位1740〜86)の時代のプロイセンに生きていた。オーストリア継承戦争(1740〜48)、七年戦争(1756〜63)の時代である。七年戦争時にケーニヒスベルクは、5年間、オーストリア側についたロシアに占領されていた。カントを始めケーニヒスベルクの人々は、ロシア人とも接することになったのだった。(第二次世界大戦で同じことが起き、ソ連領になった。)『永遠平和のために(1795)は、これらの戦争やフランス革命の激動(1789〜)と無縁ではない。

 カントにとっては、「哲学すること」が人生そのものであった。思想家ヘルダーは、師のカントについて次のように書いている。

 「いかなる陰謀、宗派、偏見も、カントにとっては、真実の解明に比すれば、これっぽっちの魅力もあったためしがなかった。彼によって、人々は自分で考えることへの勇気と快い強制を感じたのだった。」(三島憲一訳)

《参考文献》
 坂部恵『カント』(人類の知的遺産43、講談社
 坂部恵加藤尚武編『命題コレクション・哲学』(筑摩書房
 エンゲルハルト・ヴァイグル『啓蒙の都市周遊』(三島憲一・宮田敦子訳、岩波書店
 沼野充義「歴史と民族の交差する場所で」(「現代思想・特集カント」1994年3月臨時増刊号[青土社]所収)