中世 ヨーロッパ 【激しい政争の後、ダンテは】

■現代では、孔子の「四十にして惑わず」よりも、ダンテ『神曲』冒頭の次の文章の方が、共感を持って受けとめられるにちがいない。

  「ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。」(寿岳文章訳、以下同じ)

 ダンテ(1265〜1321)は、フィレンツェの小貴族の家に生まれ、ボローニャ大学(ヨーロッパ最古の大学)で学んだ。ラテン文学、特に古代ローマ叙事詩ウェルギリウスに傾倒した。『神曲』(1321完成)も、ダンテがウェルギリウスに導かれ、地獄・煉獄を経て天国に至る物語である。『神曲』・地獄篇を読むと、ギリシア・ローマ古典の教養とカトリックの世界観が一体となった叙述に、圧倒される。ダンテが描く地獄にはさまざまな人が堕ちており、聖職者たちも例外ではない。

  「頭頂を剃られているのはいずれも聖職者、教皇もおれば枢機卿もおり、貪欲の念、熾盛(しじょう)であった。」

常日頃からダンテは、高位聖職者が聖フランチェスコの精神に目もくれなかったことを、厳しく批判していた。
 30代の若きダンテは、フィレンツェの激しい政争の場に身を置いていた。当時イタリアでは、教皇派(グェルフィ、ゲルフ)と皇帝派(ギベリーニ、ギベリン)が各地で対立していた。(当時の教皇は、ボニファティウス8世である。)フィレンツェでは、さらに教皇派内部が白派(商工業者中心の、フィレンツェの自立を目ざすグループ)と黒派(貴族中心の、教皇との結びつきを強固にしようとするグループ)に分裂し、血みどろの抗争を繰り広げていた。ダンテは、白派の一員として統領の一人に選ばれていたが、黒派の巻き返しにあい、1302年フィレンツェから永久に追放されてしまう。

  「やすむひまなき命運のすばやさ。かくて、人々は、はげしい有為転変に見舞われる。」

 以後、ダンテはイタリア各地を転々としながら、著述に取り組むことになる。苦難のダンテを支えていたのが、プラトニックな永遠の女性像ベアトリーチェだったのだろう。『神曲』でダンテは、前人未到の課題に取り組んだ。『神曲』は、ラテン語ではなく、母語のトスカナ語で書かれた。トスカナ地方の民衆の言語によって、文学表現の高みに達したのである。
 晩年の比較的穏やかな4年間、ダンテは、アドリア海に臨むラヴェンナで暮らした。ラヴェンナの聖フランチェスコ教会そばの小さな廟で、ダンテは静かに眠っている。

《参考文献》
 ダンテ『神曲』(寿岳文章訳、集英社文庫

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