総合 北アメリカ 【カナダの多文化主義】

★カナダについて、一般に日本人はよいイメージを持っている。かえでの葉をデザインした国旗の親しみやすさのためかも知れない。また『赤毛のアン』がよく知られているからかも知れない。現在は先進国の一角を占めてはいるが、「覇権」とは無縁だったためかも知れない。ただ、カナダの歴史はあまり知られていない。その原因は、カナダの歴史そのものにもある。実際、隣のアメリカ合衆国とは違い、「カナダはいつ独立したの?」という問いに答えることは、なかなか難しい。
 現在カナダでは7月1日を「カナダ・デー」として祝い、建国記念日に近い日になっている。これは1867年7月1日に、イギリス本国でイギリス領北アメリカ法が発効し、カナダ連邦(カナダ自治領)が成立したからである。しかし、これはまだ独立ではなかった。また、ケベックのフランス系住民は、「カナダ・デー」をあまり祝っていない。ケベック植民地の成立の方が古いからである。さらに、1931年のウェストミンスター憲章によりイギリス本国と自治領が対等となった時点を、実質的独立の確定と捉えることもできる。(正式な自主憲法の制定は1982年であるが、この年を独立の年としたのでは遅すぎるであろう。)
 なお、現在の国旗は1965年に制定された。オーストラリアやニュージーランドの国旗とは異なり、ユニオンジャックを含んでいないが、これはフランス系住民に配慮したためであろう。しかし、国旗として宣言したのは、元首のエリザベス2世であった。(形式化したとは言え、現在も女王の下にカナダ総督が存在している。)また、国歌(「オー・カナダ」)はこれより遅く、1980年に制定された。英語の歌詞とフランス語の歌詞が作られたが、最初の国歌斉唱式典の時、問題が起こった。英語とフランス語のどちらを先に歌うか、議論になったのである。聖歌隊は二つに分けられ、英語の歌詞とフランス語の歌詞が同時に斉唱されたという。カナダの歴史を象徴する出来事であり、カナダらしい解決法であった。

 カナダの歴史は、16世紀にさかのぼる。フランスのカルティエの探検が16世紀前半に行われた。フランスの本格的進出は17世紀初め、アンリ4世の時であった。ヌーヴェル・フランス植民地として、ケベックの形成が始まったのである。しかし、フランス語を話しカトリックを信じるケベック地方の人々は、フレンチ・インディアン戦争後のパリ条約(1763)により、イギリス支配下に入った。
 さらにアメリカ合衆国の独立が、カナダに大きな影響を与えることになった。独立に反対して敗れた王党派(イギリス国王支持派)の人々が、まとまってカナダに移住したのである。フランス系に対抗しうる数のイギリス系カナダ人が存在するようになったのだった。ただ、ケベックのフランス系住民は自分たちの文化的アイデンティティを守り、イギリス本国もイギリスへの同化政策をとらなかった。こうした歴史が、国歌斉唱時の出来事を生んだのだった。1982年のカナダ憲法は「本法のフランス語版は、カナダにおいてその英語版と同じ権威を有する」と定めている。

 カナダ連邦(カナダ自治領)の成立(1867)は、アメリカ合衆国の激しい内戦(南北戦争、1861〜65)と深く関係している。南北戦争に際し、イギリスが南部に好意的な立場をとったため、北部軍によるイギリス領カナダ攻撃の脅威が現実のものとなった。合衆国では、太平洋岸の領土問題から「カナダ併合論」がくすぶっていたのである。イギリス本国とイギリス領カナダは、合衆国に対抗するため(フランス系の多くは「プロテスタントアメリカ」への屈服を恐れた)、カナダ連邦(カナダ自治領)結成に踏み切った。自治権獲得の闘いの結果というわけではなかったのである。しかし、カナダとしてのアイデンティティ形成の大きな一歩になったことはまちがいない。まもなく太平洋岸のブリティッシュ・コロンビアも連邦に加わり、合衆国に次ぐ大陸国家となった。1885年には、大陸横断鉄道も完成した。

 カナダとしてのアイデンティティの形成には、長い道のりが必要だった。ケベック独立の動きさえあったのである。しかもカナダは、フランス系住民とイギリス系住民の共存という問題の他に、先住民の問題をかかえていた。かつて先住民は、アメリカ合衆国における先住民と同様の立場に立たされた。次の文書は、そのことを端的に示している。

 「平原クリー族、森林クリー族、及び以下に定められる土地に居住しているインディアンは、女王陛下とその後継者のため、カナダ自治領政府に対し、以下の境界に含まれる土地へのあらゆる権利、所有権、特権など一切を永久に譲渡、放棄、委譲、手放すものとする。」(インディアン条約第6号、1876年)

1982年カナダ憲法は、このような歴史の反省の上に立って、多文化主義の原則と先住民の権利を規定した。

 第27条 この憲章は、カナダ人の多文化主義的遺産の保持及び増進に合致するように解釈されなければならない。 第35条(1)現存する先住民の権利及び条約上の権利は、これにより承認され確認される。(2)本法律において、「カナダの先住民」とは、カナダのインディアン、イヌイット、メティスの人々を含む。

メティスとは、毛皮取引に携わっていたフランス人とインディアンとの混血により形成された人々である。現在先住民の人々は、土地利用権、狩猟権、漁業権などを訴訟でも確認しようとしている。カナダの最高裁判所判例は、先住民の権利を最大限に尊重しているように思われる。
 多文化主義の理念が先にあったわけではない。カナダの多文化主義は、独自の苦難の歴史の中から生み出されてきた、多民族共存のための知恵であり、具体的方法なのである。

 現在カナダでは、英語圏、フランス語圏以外のヨーロッパ諸国からの移民やアジアからの移民が増えており、カナダ市民の母語は多様化している。2006年の統計では、英語を母語とする人々は57.8%、フランス語を母語とする人々は22.1%、それ以外の言語を母語とする人々が20%である。1982年カナダ憲法は言語権を定めており、カナダの多文化主義は、今後新たな展開を求められるかも知れない。国名をインディアンの言葉「カナタ」(=村)からとった人々は、これからも異なる文化の共存に向けた努力を続けるだろう。

《参考文献》
 松井茂記『カナダの憲法 多文化主義の国のかたち』(岩波書店
 歴史学研究会編『世界史史料7』(岩波書店
 木村和男「カナダ連邦結成におけるイギリスとアメリカ」(「世界歴史18 工業化と国民形成」[岩波書店]所収)