現代 東南アジア 【カルティニがジャワに架けた虹】

◆わずか25歳でこの世を去ったカルティニ(1879〜1904)は、インドネシア民族主義運動・女性解放運動の先駆者と言われる。死後(1911)、オランダで出版された書簡集『光は闇を越えて』はベストセラーとなり、インドネシア語訳は現在も版も重ねている。

 カルティニは、中部ジャワ・北海岸の名門貴族(プリヤイ)の家に生まれた。その家系はマジャパヒト王国(13世紀末〜16世紀前半)にまでたどることができるという。母は父の側室であった。この地域は、ジャワ島の中でも早くからオランダの植民地となったところで、カルティニの家系からは代々植民地のジャワ人高級官僚が出ていた。19世紀末は、オランダ領東インドの完成期にあたっており(スマトラ北部のアチェ王国だけが抵抗を続けていた)、プリヤイ層の西欧化(オランダ化)・脱イスラーム化が進行していた。カルティニはそのような中で成長し、オランダ人子弟が通う小学校でオランダ語を身につけた。

 しかし13歳の時、父の命により「婚前閉居」に入った。正式な結婚の日まで館を出ないという、プリヤイ層の慣習があったのである。向学心に燃えていたカルティニは無念の涙をのんだ。のちに彼女は、この時のことをアベンダノン夫人宛の手紙で書いている。

「邸を取り巻く、高くぶ厚い石塀に囲まれた四角い空間が、それ以後、彼女の全世界となったのです。鳥籠がどんなに美しく立派でも、その中に閉じ込められた鳥にとっては、それは鳥籠に変わりはありません!」(1900年、舟知恵・松田あゆみ訳、土屋健治『カルティニの風景』より、以下同じ)

カルティニは、邸の中で、手に入る限りのオランダ語の本と雑誌を読みふけった。孤独な読書を通じて、しかもオランダ語を通じて(このことで西欧とつながっていた)、カルティニの内面が培われていったのだった。

 「開明的」なオランダ人官僚の目にとまったのか、「閉居」から6年後、植民地における新女王の戴冠祝賀会に招かれ、「閉居」は終わった。翌1899年(20歳)から、オランダ人との文通も始まる。カルティニは、死のわずか10日前まで、4年3ヵ月の間、おびただしい手紙を何人かのオランダ人に書き送った。アベンダノン夫妻によって出版された書簡集は、この時期の手紙を編集したものであった。オランダ語で思索したカルティニは、しかし、オランダ人とオランダの植民地政策を的確にとらえていた。

「オランダ人は私達ジャワ人の愚かさを笑いものにするのが好きですが、私達が勉強しようとすると、それを妨げ、敵対的態度をとるのです。…私達はヨーロッパ人と同じ学問的、文化的水準に達したいのです。人民の進歩を妨げるこうしたやり方は、一方では世界平和を唱えながら、他方では自国人民の権利を蹂躙しているツァーのやり方と同じです。」(1900年)

 アベンダノンは植民地政府の教育文化長官の地位にあった。彼は、カルティニにオランダ留学の期待を抱かせながら、結局は彼女を裏切る。彼女が自由と平等の精神をさらに強固なものとし、オランダ批判へ向かうことを恐れたのだろう。カルティニは、父の説得に折れ、24歳の時、一度も会ったことのない男性(ある県の知事)の後妻となった。長男を産んだ後、産褥熱のため亡くなったのは、翌年のことであった。自由と自立を求めながら、因習の犠牲となったカルティニ。続けていた、若い娘たちのための社会活動(識字教室、手芸教室)は、彼女の死後に継承・発展されることになる。

 書簡集『光は闇を越えて』はオランダの「開明的」植民地政策(倫理政策=「原住民」のオランダ化)のただ中で出版され、カルティニは「開明的」植民地政策の華とされるに至った。(全書簡集が1987年に出版され、今日では1911年版の意図的編集が明らかにされつつある。)また、20世紀のインドネシア民族主義運動(スカルノは1901年に生まれている)、独立運動、戦後の国民国家形成の中で、カルティニは民族の英雄となった。これは避けられないことであったろう。

 しかし、何よりも自由を求めた精神は、「開明的」植民地政策にも、単なるインドネシア民族主義にも閉じ込められることはないだろう。カルティニの精神は、ジャワを愛しながら、普遍的なものに向かっていた。書簡集に残されたカルティニの言葉は、ジャワに架かり続ける虹のようである。


《参考文献》
 土屋健治『カルティニの風景』(めこん)
 富永泰代「カルティニの虚像と実像」(www.l.u-tokyo.ac.jp)