<問いからつくる世界史の授業>(現代)【クルド人問題】

★100年前の第一次世界大戦の結果、オスマン帝国は滅亡し[1922]、2度の条約締結を経て[セーヴル条約(1920)→ローザンヌ条約(1923)]、トルコ共和国の成立が国際的に認められました。ムスタファ・ケマルの強力なリーダーシップのもと、半植民地化の圧力をはね返し、新生トルコ国民国家が誕生したのです。ただクルド人問題は、直接的には、この経過に深く関係しています。

★この歴史を振り返ることは、現在のトルコや中東情勢を考えるうえで、極めて重要です。クルド人の問題を含め、多角的に歴史を見ることが必要なのです。しかし、多くの教科書は、ケマルのトルコ革命を積極的に評価する記述に重点をおいています。たとえば、東書の『世界史B』と実教の『世界史B』は、クルド人については注に記しているだけです。山川の『詳説世界史B』は、トルコ革命のところでは触れず、1970年代以降の中東情勢でごく簡単に触れているのみです。

★新生トルコの成立とクルド人について、本文できちんと記述しているのは、帝国の『新詳世界史B』です。たいへんすぐれた内容だと思います。また、山川の『新世界史B』は、コラムで現在までの経過を述べています。イラクやイランのクルド人についても理解を深められる記述となっています。

★トルコ国民国家クルド人のおかれた状況を多角的に考える授業をつくらねばなりません。今回は、そのためのオリジナル問題です。授業は<問題+解説(◆の部分)>で構成します。(なおアルメニア人虐殺も見逃せない問題ですが、今回は触れていません。)


問題☆ [プラスα]

 ムスタファ・ケマルの新生トルコ政府は、セーヴル条約(1920)を破棄し、連合国とローザンヌ条約を締結した(1923)。ローザンヌ条約の内容として正しいものを、次の①〜④のうちから一つ選べ。

 ① トルコにおける不平等条約を完全に撤廃する。
 ② エーゲ海東岸のイズミルギリシア領とする。
 ③ 旧アラブ諸州のうち、シリアをトルコ領と認める。
 ④ 東部のクルド人居住地に自治区を設ける。


◆正解は、①です。

◆②のイズミルを占領していたギリシア軍は、ケマルのトルコ軍によって撃退されました。また、トルコとギリシアの間で、住民交換が行われることになりました。オスマン帝国領のアナトリア西部には、多数のギリシア人が居住していたのです。なお、イズミル(旧称スミルナ)は、古代からの良港で、現在のトルコでも国際港です。

◆③のシリアは、イギリス・フランス間の取り決めにより、フランスの委任統治領となりました。

◆④は、実はセーヴル条約の内容でした。このことがローザンヌ条約で否定され、クルド人トルコ共和国トルコ人の下位におかれてきたため、クルド人の運動が続いてきました(宗派的には同じスンナ派です)。

クルド人は、インド・ヨーロッパ語系の民族で、イラン系とされています。祖先はササン朝の王族とも、メディア人にさかのぼるとも言われていますが、はっきりとはわからないようです。トルコ人アナトリアに入って来る11世紀以前から、ワン湖・ウルミエ湖周辺の山岳地帯に居住していました。そのため、この地域はクルディスタンと呼ばれてきました。アイユーブ朝を創始し、十字軍と戦ったサラディン(12世紀後半)は、クルディスタンの出身です。

クルディスタンには、現在2500万人以上のクルド人が住んでいますが、第一次世界大戦後から、トルコ、イラク、イラン、シリアにまたがる国境地帯となってしまいました。ほぼ半数のクルド人がトルコ国内に居住していますが、現在はトルコ東部にだけ住んでいるわけではありません。たとえば、大都市イスタンブルの人口の10数パーセントは、クルド人です。なお、1970年以降、イラク北部では自治を獲得していますが、自治区の範囲は流動的な状況が続いています。

◆18世紀末以来の国民国家形成の潮流は、多民族国家オスマン帝国を解体させました。この流れの中でケマルは、トルコ人国民国家づくりを強力に推進し、これは現在のトルコに引き継がれています。しかし、クルド人には国民国家形成が許されないという状況が続いているわけです。

第一次世界大戦後の中東では、イギリスとフランスが中心となって、人工的な国境線を引いてしまいました。よく言われるように、このことが、現在までのさまざまな問題を引き起こしています。

◆ただ、クルド人問題を中東の問題として考えるだけでは、十分ではないでしょう。クルド人問題は、「国民国家とは何か」、「どうしたら多様な民族が平等に生きる国家をつくれるか」という問いを、私たち日本人にも突きつけているのです。


こんな考え方で書いていきます【<問いからつくる世界史の授業>について】