中世 西アジア・ヨーロッパ 【オスマン朝の勃興とバルカン支配】
★アナトリア北西部に誕生したトルコ系オスマン朝は、すでに14世紀にはバルカン半島(南東ヨーロッパ)を支配するにいたった。これは大きく見れば、ウマイヤ朝のイベリア半島進出(8世紀)のような、イスラーム勢力の西進であったが、何がオスマン朝のバルカン支配を可能にしたのだろうか。19世紀以降のバルカン諸民族のナショナリズム(近代後期のレコンキスタとも言える)はその支配を瓦解させるが、現代のバルカン史を理解する上でも、これからの多民族共存を考える上でも、たいへん重要なテーマである。
なお、通常「オスマン朝」という語は、あまり使用されない。13世紀末の建国から15世紀半ばまでは「オスマン侯国」、15世紀半ば以降は「オスマン帝国」と呼ぶのが適切とされているが、建国当初から「オスマン帝国」という語を使っている場合も多い。建国当初を「オスマン帝国」と呼ぶことはためらわれるため、本稿では建国から「帝国」までの時期を「オスマン朝」という一つの語で表した。
アナトリアは、13世紀半ばのモンゴル軍の侵入から戦国時代となった。セルジューク朝の後継王朝であった、東部のルーム・セルジューク朝は衰えてイル・ハン国に服属し、14世紀初めには滅亡した。その後には、トルコ系の小国家が乱立した。アナトリア西部は、ビザンツ帝国の衰えもあり、さらに混沌としていた。13世紀末から14世紀初めのオスマン朝は、アナトリアの諸勢力の一つに過ぎなかった。
オスマン朝のメフメト2世がコンスタンティノープルを陥落させたこと(1453)はよく知られているが、オスマン朝は当初からビザンツ帝国との関わりで成長した。その地理的位置から当然ではあるが、その勢力拡大はビザンツ領を侵食することから始まった。特に2代目の長(ベイ)オルハンが1326年ブルサを占領したことは大きく、ブルサは初期の都となった。さらにオルハンは、かつてキリスト教の公会議が開かれた都市であり、ビザンツ帝国が第4回十字軍により追われて一時都とした都市であるニケーアを占領した。またアナトリア西部の他の侯国を併合し、勢力を拡大した。
一方オルハンはビザンツ帝国の皇女と政略結婚し、ビザンツ帝国内の抗争に加わっていった。その抗争の中で、オスマン朝はバルカン半島側に領土を持つにいたったのである。14世紀半ばのことであった。オスマン朝の人々にとって(ビザンツ帝国の人々にとっても)、ボスポラス海峡やダーダネルス海峡は、アジアとヨーロッパの境界などではなかった。バルカンという語は「山」という意味のトルコ語であるが、オスマン朝の人々にとってバルカンはアナトリアと同じく山がちなところであり、農耕民と牧羊民の居住という点からも連続して捉えられていたのだった。
こうして、ビザンツ側の在地軍や傭兵が、そのままオスマン朝の支配下に入った。オスマン軍はトルコ系騎士とギリシア系の旧ビザンツ軍人、グルジア系の傭兵などから成っていたのである。またイブン・バットゥータは、14世紀前半のオスマン朝を訪れ、ベイの宮廷にはユダヤ人医師やギリシア系の小姓たちがいたことを伝えている。このように初期のオスマン朝には、のちの多民族の帝国の原型がすでに見られるのである。
ムラト1世(位1360〜89)の時代に、バルカン半島の領土は大きく広がり、現在のブルガリア中部からセルビア南部まで拡大した(コソヴォの戦いなど)。バルカン側のエディルネ(アドリアノープル)に遷都し、ベイ(スルタン)直属の歩兵常備軍イェニチェリを創設したのも、この時期である。「稲妻」と呼ばれたバヤズィット1世(位1389〜1402、彼以降はスルタンと呼ばれる)はバルカンをさらに北上してドナウ川にいたり(ニコポリスの戦い)、アナトリアも東部まで支配した。アナトリア東部の君侯たちは西進してきたティムールに救いを求め、アンカラの戦い(1402)でバヤズィットは捕虜となってしまう。しかし、オスマン朝の復活と旧支配地の再統合は早かった。すでにティマール制なども実施されており、軍事面だけでなく行財政組織の点でも他国を上回っていたからだと言われる。
バルカン半島には、ギリシア人の他、南スラヴ人(セルビア人、ブルガリア人、クロアチア人など)、アルバニア人、ラテン系のルーマニア人などが住んでいた。多くはギリシア正教徒であったが、クロアチア人などはローマ・カトリックであった。
オスマン朝が進出してきた頃のバルカンは、ビザンツ帝国の退潮の中で分裂状態にあり、諸侯の相互対立のため、オスマン朝に対し統一した戦線を組むことができなかった。加えてオスマン朝側は、<略奪→同盟→臣属→直接支配>という段階を慎重にかつ巧妙に進めて、直轄地を増やしていった。またギリシア正教会とカトリック教会の対立も、オスマン朝を利した。バルカンの正教会聖職者の中には、積極的にオスマン朝に協力し保護を求める者もいたのである。オスマン朝はイスラームへの強制改宗政策はとらなかった。スルタンがビザンツ皇帝に代わる支配者であることを認知させ税を徴収することが、最も重要だったのである。15世紀までは、キリスト教徒のまま政府高官になる者もいた。バルカンに漸増したムスリムは、アナトリアから移住したトルコ系騎士が現地の支配層と融合した結果であり、自主的な改宗者がほとんどであった。トルコ語は公用語的な位置を占めていたものの、勅令などの公文書はギリシア語でも出されていた。
ムラト1世の時代に創設されたイェニチェリは、14世紀末のバヤズィット1世の時代からデヴシルメという少年徴用制度によって補充・増員されるようになった。「スルタンの奴隷」のリクルートであり、8歳から15歳のキリスト教徒の少年たちを一家に一人徴用したのだった。おもにバルカン各地で行われ、少年たちは集団でイスタンブルに送られてムスリムに改宗させられ、兵士として育てられた。一部の少年たちは宮廷に仕える者ともなった。この一見異様な制度はオスマン朝独特の人材養成制度であり、宗教や民族の違いのみで人々に線を引く社会では実現できなかったであろう。少年たちからすれば、多くの場合、安定した生活や出世の道が開けたことを意味していた。「スルタンの奴隷」は生きる権利をスルタンに握られてはいたが、オスマン社会の中では特権的な地位を占めていたのである。
デヴシルメは、オスマン朝の高い人的流動性の象徴でもあった。人的流動性は、他の面でも見られる。多数のユダヤ人が居住していたし、エディルネやイスタンブルを結節点として、人も商品も大量に移動していた。またオスマン家にはビザンツ皇帝の娘が嫁いでいたが、ムラト1世はブルガリア王の妹と、バヤズィット1世はセルビア王の妹と結婚している。宗教の違いも民族の違いも、何ら婚姻の障害とはならなかった。16世紀からは異教徒の女奴隷の中から、妃が選ばれた。最盛期のスレイマン1世(16世紀)の寵妃もそうであり、ロシア人であったという。スルタン自身、何代にもわたって、純粋なトルコ人ではなかったのである。またメフメト2世時代(15世紀後半)の大宰相8人のうち、6人がバルカン出身者であった。支配層に民族意識はなく、あったのは「オスマン人」としての意識であった。
私たちはどうしても「国民国家」の目で過去の国々を見てしまうが、オスマン朝は多民族・多文化の重層的国家であった。オスマン朝の人々は、現在のような民族意識や「国民」意識とは別な世界で生きていたのである。もちろん、標準的な「国語」も存在しない、多言語社会であった。オスマン朝はスルタンの集権的な専制国家であったが、その統治を「柔らかい専制」と呼ぶ人もいる。
ヨーロッパの主権国家との対峙の中で、17世紀以降オスマン朝もしだいに変化していくのであるが、その先にはバルカン半島の「バルカン化」とアナトリアのトルコ化が待っていたのだった。
《参考文献》
鈴木董『オスマン帝国』(講談社現代新書)
鈴木董「オスマン帝国と対外的コミュニケーション」(『シリーズ世界史への問い3』[岩波書店]所収)
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10[講談社])
柴宜弘編『バルカン史』(世界各国史18[山川出版社])