▶書評 【柄谷行人『哲学の起源』(その1)】

■哲学の始まりを叙述した書物はあまたあるが、哲学の起源を探求した書物は少ない。その探求には、たいへんな力が必要とされる。それを、柄谷は行おうとした。

■哲学への希求は、すべての人の心にある。その意味では、『哲学の起源』は、人々の関心の根底に触れようとした著作である。

■しかし残念なことに、柄谷の探求は、看過できない問題をたくさん含むものになってしまった。

■最大の問題は、「イオニアのイソノミア(無支配)」が歴史的にも哲学的にも論証されていないことである。論証されていないにもかかわらず、イオニアの社会とイソノミア(無支配)が単純に等号で結ばれ、それを前提にさまざまな議論が展開されている。悲しいかな、史実の誤認さえある。

■イソノミアという語も、きちんと分析されているとは言えない。「無支配」という訳語が、吟味されることなく、自明であるかのように使われている。

■こうして、「イオニア=イソノミア=無支配」は、ユートピアの位置を占めてしまったのである。それが、柄谷の最初からの目論見だったのだろうか?

■それがユートピアである以上、歴史上のアテネが断罪されるのは当然であろう。

■最後の方で「ソクラテスが目指したのは、統治そのものの廃棄であり、イソノミア(無支配)である」と述べるにいたっては、唖然とせざるをえない。柄谷が目指しているのは「統治そのものの廃棄」であろうと推測できるし、そのことを批判するつもりはない。しかし、ほとんど詐術的な論理で、ソクラテスを強引に自分と同一の思想の持ち主に仕立て上げてしまうのは、許されることではないと思う。

■次のようにまとめることができるだろう。「柄谷は、『イソノミア(無支配)』を登場させた。この『イソノミア』が仮構であることは自明であるが、にもかかわらず、それによって、いつも『イソノミアの死』という出来事を喚起する効果を持つ。一言でいえば、柄谷は自分の闘争を『イソノミア』の名によって正当化しようとしたのである。」(p.205を参照されたい。)

→詳しい評は、【柄谷行人『哲学の起源』(その2)】をご覧ください。
→関連テーマ【イオニアの海辺で、哲学が生まれた】