総合 ラテンアメリカ 【クレオール】

★新しい社会関係の中で、異なる母語を持つ人々が、コミュニケイトしようとする時生み出される、橋渡しのオーラルな言語は、ピジンと呼ばれる。長年話される中で、ピジンの発展したものがクレオールである。橋渡しの域を越え、その社会に生きる人々のかけがえのない表現手段として、母語化したものである。やはりオーラルな言語であったが、次第に文字化されるようになった。
 アラビア語とバントゥー語の出会いから生まれたスワヒリ語、ペルシア語・アラビア語とインド北西部の言語の出会いからうまれたウルドゥー語ヘブライ語とドイツ語・スラヴ諸語の出会いからうまれたイーディシュ語などは、クレオールである。ただ狭義には、ヨーロッパ人の植民地形成にともなって生まれた、カリブ海地域の言語や西アフリカの言語を指すこともある。
 クレオールという語は、語源的にはスペイン語の中で16世紀に生まれ、「植民地生まれではあるが土着のものではないもの」という意味であったという。おもに植民地生まれのスペイン人を指して使われていたが、植民地特有の言い回しをも指すようになり、フランス語・英語に取り入れられていった。

 クレオールという語が日本で注目されるようになったのは、1990年代からである。カリブ海地域のフランス語圏であるマルティニク島の作家たちが『クレオール性礼賛』を1989年に出し、フランス文学・思想経由で日本に入ってきた。マルティニク出身の思想家フランツ・ファノンがすでに紹介されていたという素地もあっただろう。しかし、他の「現代思想」と同様、潮が引くようにあまり話題に上らなくなった。
 クレオールという語は、現在は混血性の文化一般を指すまでに意味が拡大しているかも知れないが、ここではクレオールが本来持っていた意味と問いかけを、カリブ海地域の歴史を振り返りながら考えてみたい。

 カリブ海の北側から東側にかけてたくさんの島々が連なっている。キューバ、ジャマイカ、ハイティ、ドミニカ共和国プエルト・リコなどの国・地域のあるところは大アンティル諸島と呼ばれる。その東側の島々が小アンティル諸島で、マルティニクやグァドループ、バルバドス、トリニダッド・トバゴなどがある。このカリブ海地域は、地理的にも歴史的も、メキシコや中央アメリカと区別して考えられるようになってきた。(コロンブスの誤解から生じた「西インド諸島」という語も、まだ使われているが。)
 スペイン、ポルトガルから少し遅れてアメリカに進出したイギリス、フランスは、スペイン、ポルトガルの支配が及んでいなかった小アンティル諸島に目をつけた。17世紀前半にイギリスはバルバドスなどを、フランスはマルティニクとグァドループを獲得した。先住のカリブ人の多くは殺された。バルバドスから始まったサトウキビ栽培はまたたくまに小アンティル諸島大アンティル諸島に広まり、そこに黒人奴隷が導入されてサトウキビ・プランテーションが形成されたのだった。
 ある統計によれば、1601年から1870年までに大西洋を運ばれた黒人奴隷は940万人であるという。そのうち405万人がカリブ海地域に売られた。イギリス領に運ばれたのが166万人、フランス領に運ばれたのが152万人であった。イギリス領ではジャマイカに、フランス領ではサン・ドマング(後のハイティ)に大規模なサトウキビ・プランテーションが展開された。18世紀末からはスペイン領キューバの砂糖生産が盛んになった。
 カリブ海地域がメキシコ、中央アメリカ、南アメリカと違っていたのは、先住民文化がほとんど残っていなかったことである。故郷から隔絶された黒人奴隷とヨーロッパとその伝統に別れを告げてきた白人奴隷主が、プランテーションという生産機構の中で作った複合社会。これは、かつて歴史上に存在したことがない社会だった。白人の男たちが家庭を築けなかったため、フランスでは「ふしだらな女たち」が捕らえられ、カリブ海地域に送られた。多数のムラート(白人と黒人の混血)の人々も生まれたが、多くは白人奴隷主の性権力の行使の結果だった。黒人やムラートは人間として認められず、ヨーロッパ文化を強制された。クレオールは、このような社会の中から生まれた言語だった。苦しみと屈辱の中から、自分たちのアイデンティティのよりどころとして、母語としてのクレオールは生まれたのである。マルティニク出身のエドゥアール・グリッサンは、次のように述べている。

 「母胎としての奴隷船の後、このプランテーションという第二の母胎にこそ、困難で不透明なわれわれの源泉の軌跡を、たどってゆかなくてはならないのだ。」
 「プランテーションが構成する隔離の場所で、つねに多言語的、しばしば多人種的な錯綜が、血統の織物の中にどうにも解きほぐし得ないいくつもの結び目を作り、そうすることによって、西欧の思考が非常な輝きを与えてきた明晰で線的な秩序を、破ってきたのだった。」

 18世紀末、フランス革命の激化の中で、サン・ドマングの奴隷たちが蜂起した。イギリス軍も介入し、カリブ海地域一帯に混乱が広がった。フランスの国民公会は、1794年2月(ロベスピエールの恐怖政治の時期である)、すべてのフランス領での奴隷制廃止を決定した。やがて統領ナポレオンは指導者トゥサン・ルヴェルチュールを本国に連行したが、サン・ドマングの混乱は続いた。1802年、ナポレオンは奴隷制を復活させる。マルティニク出身の妃ジョゼフィーヌ(大プランターの娘であった)が進言したと言われている。激戦の末、フランス軍サン・ドマングから撤退し、1804年ハイティ共和国の独立が宣言された。(独立後のハイティは、過酷な歴史をたどって現在にいたっている。)
 しかし、ハイティと対照的に、白人プランターの力が比較的強かったマルティニクとグァドループは、フランス領のままであった。1848年、第二共和政の下で、シェルシェールらが主導して奴隷制廃止が決定された。シェルシェールは「王政は黒人を奴隷にし、共和政は彼らを自由にした」と述べた。(しかし一方で、アルジェリア征服戦争が継続されていた。)奴隷解放後、マルティニクとグァドループでは、ムラートや黒人層も権利の拡大のためにフランス本国へのいっそうの統合を目指し、国民議会にも議員を送ってきた。

 フランスへの統合の流れは20世紀まで続いてきた。20世紀半ばエメ・セゼールによって「ネグリチュード」(黒人性に立ち戻ること)が提起されたが、同化の波にのまれていった。独立派は少数だった。カリブ海地域の他の島々が独立する中、マルティニクとグァドループは、1946年、フランスの海外県という独特の地位を占めるに至った。フランスの飛び地のようになったのである。
 フランスに支配されながら、完全にはフランスに同化できず、「ネグリチュード」にも戻れない中で、『クレオール性礼賛』は書かれた。「政治的に独立できなくとも、私たちはクレオールを魂として文化的に自立している」という叫びであった。それは、クレオールを話す一人一人のアイデンティティに関わるものであっただろう。しかし、政治的・経済的現実から切り離された「クレオール性」とは何なのかという疑問が出された。「クレオール性」という一般化へ退行する危険性やクレオールの女たちの視点の欠如も指摘された。
 『クレオール性礼賛』は、ポストコロニアルの成果として知識人の間でもてはやされながら、結局は西欧的言説の中に回収されてしまったのかも知れない。しかし、著者の一人ラファエル・コンフィアンは、1982年には次のように書いていた。

 「アンティーユ諸島のフランスの存在にうんざりです。フランスのテレビも、フランス文化も、フランスのスーパーマーケットも、フランスの学校も、フランス人の日焼けした青白い顔も。」

 ここに表現された苦しさをこそ、見なければならない。コロニアルな現実は続いていたのである。

 十数年前、マルティニクの県都フォール・ド・フランス(!)のジョゼフィーヌ像は、首を折られていたという。クレオール語の落書きもあちこちにあったという。落書きの一つには、「フランス人出て行け」と書かれていたとのことである。フランスでありながらフランスでないマルティニクとグァドループは、今どんな状況にあるのか? 2002年からはユーロも導入されたのだが、コンフィアンが書いたような、「クレオール性」へと一般化される手前の葛藤は、続いているだろう。文化は政治的・経済的ひずみと複雑に絡み合っている。
 マルティニクやグァドループやハイティのひずみ、それをもたらしたフランスのひずみ、それは世界のひずみであり、私たち自身のひずみである。しかし歴史のひずみは、ひずみを越えようとする力をも生み出してきた。多人種的な錯綜の中から生まれたクレオールの力、現実の生きたクレオールの力は、間違いなく存在し続けている。

《参考文献》
 増田義郎・山田睦男編『ラテン・アメリカ史Ⅰ』(山川出版社
 林正寛「ピジンクレオール」(『シリーズ世界史への問い3』[岩波書店]所収)
 エドゥアール・グリッサン『<関係>の詩学』(管啓次郎訳、インスクリプト
 恒川邦夫「《ネグリチュード》と《クレオール性》をめぐる私的覚え書き」(「ユリイカ」1997年1月号所収)
 ラファエル・コンフィアン「エメ・セゼールへの手紙」(星埜守之訳、「ユリイカ」1997年1月号所収))
 ジャッキー・ダメオ「アンティルアイデンティティと<クレオール性>」(複数文化研究会編『<複数文化>のために』[人文書院]所収)
 石塚道子「クレオールジェンダー」(複数文化研究会編『<複数文化>のために』[人文書院]所収)
 砂野幸稔「ネグリチュードクレオール、そして複数性」」(複数文化研究会編『<複数文化>のために』[人文書院]所収)