近代 北アメリカ 【黒人奴隷にとって、7月4日は】

★19世紀、まだ誕生して間もないアメリカ合衆国は、さまざまな問題に直面していたが、特に奴隷制度は大きな問題となっていた。合衆国憲法も黒人奴隷を市民とは見なしていなかった。

「良心的」で「人道的」な人々は、解放奴隷(逃亡奴隷を含む、自由民となった黒人)をアフリカ大陸へ送還することが解決策だと考え、アフリカ植民協会をつくった。1820年、最初の一団が西アフリカへ送られた。後にここはリベリア共和国となっていく。(しかし、リベリアは解放奴隷だけでできた国ではない。すでに居住していた部族との軋轢が続いた。今日では、解放奴隷の子孫は8%にすぎない。)アフリカ植民協会には、アフリカに解放奴隷を送り込むことによって、未開拓の土地を文明化し、キリスト教を布教するという重要な目的があった。西部への膨張を「明白な宿命」と呼ぶ考え方が1830年代から出てくるが、これと同じ考え方だったと言っていい。

 白人による黒人のアフリカ送還は、実は、解放された黒人との共存の不可能性の表明でもあった。ハリエット・E.B.ストウ(なぜ今もストウ夫人という表記が使われるのか、不思議である)が書いた『アンクル・トムの小屋』はベストセラーとなり、奴隷制反対の世論を盛り上げたという。しかしストウは、白人と解放された黒人との社会的共存は困難と考えていた。当時のアメリカ社会では、特に白人女性の黒人男性に対する忌避感は、極めて強かった。敬虔なキリスト教徒に教育しアフリカに送り出す、これがストウの考え方であった。

 『アンクル・トムの小屋』が出版された1852年(世論の分裂を決定的にしたカンザスネブラスカ法成立の2年前、南北戦争が始まる9年前)、ニューヨーク州ロチェスター市の独立記念日の式典で、元奴隷のフレデリック・ダグラスが演説した。ダグラスは「奴隷にとって7月4日とは何か?」と聴衆に問いかけた。

「この7月4日は皆様のものですが、私のものではありません。皆様が歓喜するとき、私は嘆いています。…市民の皆様、国家的な喜びの声の喧噪のかなたに、何百万人の、深い嘆きの声を私は聞きます! …私は全身全霊で、ためらうことなく、この国の特質と行動は、7月4日には格別に邪悪に響く、と申し上げましょう! …今日のこの特別な日に、神と、押し潰された血を流す奴隷とともに立ちながら、踏みにじられた人々の名のもとに、足枷をはめられた自由の名のもとに、無視され踏みつけられた憲法と聖書の名のもとに、強調してもしすぎることのない奴隷制度ーーアメリカの大罪、アメリカの恥ーーを恒久化するすべてを問いただし、弾劾します。」(荒このみ訳)

 フレデリック・ダグラスは、1818年メリーランド州(のちに分裂した南部のアメリカ連合国の首都リッチモンドは、この州のすぐ南である)に生まれた。母親が奴隷で、父親は白人の主人であった。当時のアメリカでは、白人奴隷主が女性奴隷に子どもを産ませることは、よくあることだった。そして、奴隷の子は奴隷だった。20歳の時逃亡に成功し、やがて奴隷解放運動家たちと交流するようになる。スレイブ・ナラティヴ(奴隷物語)としての『自伝』(1845)も貴重な本である。

 ダグラスは演説で、アメリカ国内の奴隷市場の実態も告発している。市場へ奴隷たちを追い立てる「ピストル、鞭、牛刀」を持った仲買人たち、母親から引き離される13歳の女の子、「腕に抱いている赤ん坊の額に涙を」こぼす若い母親、その母親に容赦なく振り下ろされる鞭…。「独立宣言」(1776)の「自由」「平等」「幸福追求」という言葉がいかに空しいものだったか。1950年代後半から燎原の火のように広がった公民権運動は、ダグラスをはじめとした黒人たちの血のにじむような活動の歴史があって、可能だったのだ。

 悲惨な現実にもかかわらず、ダグラスの演説には、真っ直ぐでポジティヴな精神がみなぎっていた。演説の中程に、詩人ロングフェロー(1807〜82)の詩が引用されている。

  Act,−act in the living present ! / Heart within , and God o'erhead !

  「活動せよ、生きた現在に活動せよ! / 内に勇気、頭上に神をいただいて!」(亀井俊介訳)

 詩集『人生讃歌』(!)の一節であった。

《参考文献》
 『アメリカの黒人演説集』(荒このみ篇訳、岩波文庫
 上岡伸雄『名演説で学ぶアメリカの歴史』(研究社)
 『アメリカ名詩選』(亀井俊介川本皓嗣篇)
 紀平英作、亀井俊介アメリカ合衆国の膨張』(中央公論社版世界の歴史23)

▶ 関連テーマ 【『「アメイジング・グレイス」が生まれた』】