総合 ヨーロッパ 【ランス大聖堂とジャンヌ・ダルク】

 1918年、フランスの思想家ジョルジュ・バタイユは、『ランスのノートルダム大聖堂』と題する小冊子を出版した。バタイユは書いている。

 『我々の間には、あまりに多くの苦痛、あまりに多くの暗闇がある。(中略)たしかに神の光は我々すべてのために輝いているのだが、我々は日々の不幸のなかでさまよっている。(中略)私は、みすぼらしくこの不幸を嘆いていたときに、友人から「ランスの大聖堂を忘れるな」と言われ、すぐさま大聖堂を思い起こしたのだったが、そのとき追憶のなかの大聖堂はあまりに崇高であったため、私は、自分自身の外へ、永遠に新しい光のなかへ、投げ出されたような気がしたのだった。私はこのとき大聖堂を、神が我々に残した最も高く素晴らしい慰めとして見た。』(酒井健訳)

 書かれたのは、第一次世界大戦末期である。この時、ゴシック様式を代表するランス大聖堂は、ドイツ空軍の爆撃を受け半壊状態にあった。北フランスのランスやその周辺は、連合国軍とドイツ軍の激しい争奪戦の場となっていたのである。第一次世界大戦の激戦地マルヌ、ソンム、ヴェルダンは、いずれもランスから100㎞前後のところにある。

 バタイユは、次のように続けている。

 「私は、たとえ廃墟になっても、大聖堂は我々のなかで、死にゆく者のための母親としてあり続けるだろうと思ったのである。これはまさしく、独房のなかで長い苦痛にあった、至福のジャンヌ・ダルクを慰めていたヴィジョンにほかならない。」

 バタイユはやがてカトリックを棄てることになるのだが、この『ランスのノートルダム大聖堂』は、第一次世界大戦の悲惨な状況の中で、独特の熱情をもって書かれた。バタイユが「死にゆく者のための母親としてあり続けるだろう」と言っているのは、この大聖堂が聖母マリアに捧げられていたからである。聖母とジャンヌ、ランス大聖堂とジャンヌは不可分であった。

 ジャンヌ・ダルクは、イングランドとの戦争に加えて内戦が続くフランスに現れた。いわゆる百年戦争(1339〜1453)の最中である。ロレーヌ地方のドンレミ村で生まれ育った17歳のジャンヌは、1429年、劣勢にあった王太子シャルル(アルマニャック派の支持を受けていた)の側で登場した。人々の前に現れた「オルレアンの乙女」ジャンヌは、次のように描かれている。

 「甲冑に身を固め、白馬にまたがって町(オルレアン)に入ってきた。先駆の兵に持たせた純白の旗印には、百合の花を手にした二人の天使が、槍先の小旗にはお告げを受ける聖母が描かれていた。……オルレアンの町からは兵士や男女の市民たちがおびただしい松明を掲げ、歓声をあげて出迎えた。あたかも神が降り立ったようであった。」(『籠城日誌』[当時の記録。筆者はわかっていない。]、高山一彦訳)。

 白い百合は聖母マリアの象徴であり、中世後期のマリア信仰の深まりがうかがわれる。ジャンヌの登場によって、アルマニャック派の兵士の士気は一気に高まり、オルレアンはイングランド軍の包囲から解放された。

 この時点では、王太子シャルルも、対立するブルゴーニュ派(イングランドと結んでいた)も、まだ戴冠式は行っていなかった。そして、戴冠式をあげる場合はランスと決まっていた。メロヴィング朝のクローヴィスがランスでカトリックに改宗したことから、9世紀初め以来、代々のフランス王はランスで戴冠式を行っていたのである。オルレアン解放の2ヵ月後、ジャンヌは王太子シャルルの戴冠式をランス大聖堂で挙行することに成功した。(大聖堂は1211年に着工され、当時まだ完成には至っていなかったが。) シャルル7世の誕生である。

 だが、ジャンヌの人生は暗転する。翌年ジャンヌは、ブルゴーニュ派に捕らえられた。シャルル7世側からは、身代金の提供などの救出策は一切とられなかった。シャルル7世は、ブルゴーニュ派との和解を進めようとしていたのである。身代金でジャンヌを買い取ったのは、イングランドであった。1431年、イングランドのフランスにおける根拠地ルーアンで、ジャンヌは異端裁判にかけられた。パリ大学神学者たちが進んで協力した。判決は、次のように述べている。

 「被告は分派的であり、教会の統一と権威に背き、背教者である。」(高山一彦訳)

 判決のあったその日のうちに、ジャンヌは、ルーアンの広場で火刑に処せられた。19歳であった。大勢の人々が、焼き殺されるジャンヌを見ていた。イングランド側は、遺灰をすべてセーヌ川に捨てさせた。ジャンヌの遺灰が聖遺物とされることを恐れたのである。

 ジャンヌは、25年後の再審で復権した(1456年)。老いた母親の請願が実ったのである。審理では、オルレアン防備の責任者、オルレアン市民、ドンレミ村の住民など、110余名の人々が証言台に立ったという。

 近代以降、ジャンヌ・ダルクは、フランス史上最高のヒロインとなっていった。19世紀のロマン主義的な国民史観の中で、またプロイセン・フランス戦争の敗北という屈辱の中で、さらには第一次世界大戦のおびただしい犠牲の中で、ジャンヌはフランスの国民統合のシンボルとなったのである。バタイユがランス大聖堂について書いた2年後の1920年ローマ法王庁はジャンヌを聖女に列した。これによって、ジャンヌ・ダルク神話は完成する。

 私たちもまた、ジャンヌ・ダルクの神話から逃れることは難しい。しかし、それだからこそ、「独房のなかで長い苦痛にあった」ジャンヌその人を思わずにはいられない。中世末期フランスを駆け抜けた一人の少女。19年の生涯。ドンレミ村、オルレアン、ランス大聖堂、独房、ルーアンの広場、そしてセーヌ川に流れる遺灰……。

 ランス大聖堂の美しい薔薇窓と微笑みの天使像、それはジャンヌが見上げたものでもあっただろう。天使の微笑みは、最後までジャンヌの心の中に生き続けていたに違いない。


《参考文献》
 酒井健バタイユ入門』(ちくま新書
 高山一彦『ジャンヌ・ダルクの神話』(講談社現代新書、絶版)
 高山一彦『ジャンヌ・ダルク −歴史を生き続ける「聖女」−』(岩波新書
 都築響一、木俣元一『フランス・ゴシックを仰ぐ旅』(新潮社とんぼの本